メッセージ - 寄留者によってもてなされた寄留者(士師記19:16-21)
礼拝説教メッセージ音声:寄留者によってもてなされた寄留者(士師記19:16-21):右クリックで保存
レビ人の旅人は、近くにある異邦人の町に滞在する事を避け、わざわざ遠くのギブアまで来たというのに、あいにく、彼らをもてなそうとする人は誰もいなかった。
ようやく彼らに声をかけたのは、この町の者ではなかった。
『時にひとりの老人が夕暮に畑の仕事から帰ってきた。この人はエフライムの山地の者で、ギベアに寄留していたのである。ただしこの所の人々はベニヤミンびとであった。彼は目をあげて、町の広場に旅人のおるのを見た。老人は言った、「あなたはどこへ行かれるのですか。どこからおいでになりましたか」。』(士師記19:16-17)
律法では、同族の人が困っている時には助けてやるべきことが命じられているのに、ベニヤミン族はそれをしなかった。
旅人をもてなす事は、パレスチナでは、何も律法を持っていない民であっても、当然のごとく行う事であり、それをしない事は品格を疑われるものであった
つまり彼らは、神の国の美徳どころか、世の美徳も全くもって意に介さなかったようである。
御言葉なしに生きていると、世の人よりも、モラルが低下してしまうのだ。
『その人は言った、「われわれはユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥へ行くものです。わたしはあそこの者で、ユダのベツレヘムへ行き、今わたしの家(原文:主(エホバ)の家に帰るところですが、だれもわたしを家に泊めてくれる者がありません。』(士師記19:16-18)
主(エホバ)の家は当時、エフライム山地の近くのシロにあった。
彼らはもしかしたら、自分の家に帰る途中、シロに寄ろうとしていたのかもしれない。
『われわれには、ろばのわらも飼葉もあり、またわたしと、はしためと、しもべと共にいる若者との食物も酒もあって、何も欠けているものはありません」。老人は言った、「安心しなさい。あなたの必要なものはなんでも備えましょう。ただ広場で夜を過ごしてはなりません」。そして彼を家に連れていって、ろばに飼葉を与えた。彼らは足を洗って飲み食いした。』(士師記19:19-21)
彼らは、主に仕えるレビ人であり、また、彼ら自身が食料や飼料も持っていたため、宿を貸すだけでも十分だったのに、誰もそれをしなかった。
しかし彼らは、寄留の人の家に寄留する形で、ようやく一息つくことが出来た。
この地上においては、私達は旅人であり、寄留者である。
神の国であるべき場が神の品性を捨てる時、神の国の中では”寄留者”と呼ばれるような人こそ、神の人をもてなすようである。
主イエス様は言っている。
『そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。」すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」』(マタイ25:34-40)
主は全てを見ておられる。
世が創造される以前から用意されている御国(マタイ25:34)を受け継ぐ事ができるのは、主にある兄弟姉妹をよくもてなす人、小さな事に忠実な人である。
王となられた主から誉められた人達は、自分がそれをしたのに、それを覚えていない程「当然に」その行動を行っており、また、永遠の呪いに定められる人も、自分たちがいつ主を軽んじたのかを知らないほど「当然に」その行動を行っている。
この、主に喜ばれる事を、当然のごとくに、無意識のうちにしてしまう性質は、主を意識し、天の御国を意識して過ごす日々の積み重ねによって、培われる。
私達は、いつもどこでも主がおられる事を意識し、無意識に主を喜ばせる特性を日々積み上げたい。