メッセージ - 主に正しく向き合うまでの惨敗続き(士師記20:19-28)
礼拝説教メッセージ音声:主に正しく向き合うまでの惨敗続き(士師記20:19-28):右クリックで保存
『そこでイスラエルの人々は、朝起きて、ギベアに対し陣を取った。すなわちイスラエルの人々はベニヤミンと戦うために出て行って、ギベアで彼らに対して戦いの備えをしたが、ベニヤミンの人々はギベアから出てきて、その日イスラエルの人々のうち二万二千人を地に撃ち倒した。しかしイスラエルの民の人々は奮いたって初めの日に備えをした所にふたたび戦いの備えをした。』(士師記20:19-22)
ベニヤミン族と、残りのイスラエル11部族との戦いの火蓋が、いよいよ切って落とされた。
ベニヤミンは数では圧倒的不利であるし、大義も彼らの側には無く、神と人との前に悔い改めも無いまま、強情にも戦いに来たのに対して、イスラエルの側は、数では既に圧倒し、神に伺いを立てた所、「ユダが先に行け」という示しまで頂いた。
兵力においても、大義においても、霊性においても、イスラエル側のほうに分がある、と思いきや、初日の戦いでイスラエルは惨敗を喫してしまう。
一体どうした事だろう。
大義はこちら側にあるはずなのに、そして主に伺って導きまで頂いたというのに惨敗し、悪が栄えてしまうような時は、疑うべきだ。
自分達はほんとうに、主の御前に正しく立っていたかどうかを。
『そしてイスラエルの人々は上って行って主の前に夕暮まで泣き、主に尋ねた、「われわれは再びわれわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦いを交えるべきでしょうか」。主は言われた、「攻めのぼれ」。』(士師記20:23)
彼らはここに来て、はじめて「われわれは戦いを交えるべきでしょうか」と、質問をした。そう、イスラエルは元々、そんな根本的な質問さえ、していなかったのだ。
彼らは最初、神抜きの議論熱弁に激昂し、ベニヤミンを打ち滅ぼすまでは決して引くまい、と、堅く決意した後で、取って付けたかのように主に伺いを立て「誰が最初に行くべきか」と主に伺った。
彼らは自分の意見主義主張を御心よりも優先させたために、惨敗を喫したのだ。
その結果、彼らは少しだけ、霊的にまともになった。
その日の内に、ギブアから10kmほど北へ上って、夕暮れまで御前で泣き、その上で、主に伺うようになったのだ。
『そこでイスラエルの人々は、次の日またベニヤミンの人々の所に攻めよせたが、ベニヤミンは次の日またギベアから出て、これを迎え、ふたたびイスラエルの人々のうち一万八千人を地に撃ち倒した。これらは皆つるぎを帯びている者であった。』(士師記20:24-25)
今度は、主から「攻めのぼれ」という示しがあり、戦う事が御心であると明確に分かった。
しかし、今度もまた惨敗を喫してしまった。
まだ、彼らの主に対する態度が正しくなかったのである。
これまでの戦績を見ると、イスラエルは、40万の十分の一に相当する4万人が、既に殺されてしまった。それなのに相手は全く被害が出ていない。
イスラエルは、うろたえただろう。
こうして彼らは、さらに真剣になって、主の前に立つようになった。
『これがためにイスラエルのすべての人々すなわち全軍はベテルに上って行って泣き、その所で主の前に座して、その日夕暮まで断食し、燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。そしてイスラエルの人々は主に尋ね、・・・そして言った、「われわれはなおふたたび出て、われわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦うべきでしょうか。あるいはやめるべきでしょうか」。主は言われた、「のぼれ。わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたすであろう」。(士師記20:26-28)
イスラエルは今までに無かった事を行っている。
それは、主の前に「座した(ヤーシャブ:座る、住む、留まる)」事、また、断食した事、そして、全焼のいけにえと、和解のいけにえとを捧げた事だ。
彼らはまず「主の前に座した。」
以前は主の御前に低くなる事無しに、主に伺うだけ伺って、示しが与えられたならそのまま出て行ったものだが、今回は、主の前に自らを低くし、主の御前にとどまったのだ。
また「断食」をし、御旨が示されるまでは、自分の好むことを主の前で止めたのだ。
そして「全焼のいけにえと、和解のいけにえを捧げた。」すなわち、全身全霊を捧げるための捧げ物と、神と和解するための捧げ物を主に捧げた。
主は、敢えて悪人を栄えさせ、神の民を災い続きにされる事がある。
それは、神の民が御前に正しく立つべき事を教えるためであり、また、主の真実と公平が、主のすばらしき御業が、誰の目にも明らかにさるためである。
『主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」』(出エジプト記10:1-2)
士師記の時代のイスラエルは、主の御前に正しくない態度を取り続けて来たために、惨敗続きとなった。
その結果、彼らは本気で主との正しい関係を持とうと努力するようになった。
そして彼らは、自ら高慢を捨て、自分の好む事を捨て去って、一心に主に求めるようになり、そして、主の前に犠牲を捧げた。
そうしてようやく、主から「わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたすであろう」と、勝利の約束をいただけたのだ。
もし、こちら側に正義がある筈なのに、また、主に伺いを立てているつもりなのに、惨敗続きで、悪がただ栄えているとしたならば、まず、主との関係を吟味する必要がある。
主の前に高慢になっていなかったかどうか。
主に伺う事よりも、自分の好む事を優先して行っていなかったかどうか。
そして、主に捧げ物をする事を怠ってはいなかったか。
また、悔い改めるべきを、悔い改めず、主と和解していない状態のままではなかったか。
『そのころ神の契約の箱はそこにあって、アロンの子エレアザルの子であるピネハスが、それに仕えていた』(20:27-28)
ピネハスと言えば、イスラエルが荒野で40年さまよい歩いていた終盤の時期、イスラエルの中で不品行が生じた時に、主の怒りを自分の怒りとし、みだらな事をしていた男女を、槍で一刺しに貫き、神の怒りをなだめた、あの祭司である。(民数記25章)
彼は御前に忠実で、罪に対して決して妥協しなかったからこそ、いのちが祝福され、出エジプト記から士師記の時代に至るまで主の前に仕えていたのだ。
『「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。』(民数記25:11-13)
彼がまだ主の御前につかえていた、という事は、これら一連の忌まわしい事件は、ヨシュアの死後、さほど経っていない時期に起きた事になる。
中々信じがたい事かもしれないが、いかに信仰者の子であっても、性的・モラル的に堕落してしまうのは、あっという間に起こりうるという事も、忘れてはならない。
だからこそモーセは、申命記で口を酸っぱくして命じたのだ。
生まれてきた子には律法を朗読し、守り行わせ、しっかり信仰を継承すべき事を。
私達もいつも霊的に目を覚まし、信仰が途絶えてしまわないように、気をつけていなくてはならない。