メッセージ - 礼拝の場を、女性を強奪する場に変えてしまう愚かさ(士師記21:16-24)
礼拝の場を、女性を強奪する場に変えてしまう愚かさ(士師記21:16-24)
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- 執筆 :
- pastor 2014-12-25 7:39
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『会衆の長老たちは言った、「ベニヤミンの女が絶えたので、かの残りの者どもに妻をめとらせるにはどうしたらよいでしょうか」。彼らはまた言った、「イスラエルから一つの部族が消えうせないためにベニヤミンのうちの残りの者どもに、あとつぎがなければならない。しかし、われわれの娘を彼らの妻に与えることはできない。イスラエルの人々が『ベニヤミンに妻を与える者はのろわれる』と言って誓ったからである」。』(士師記21:16-18)
彼らは、主が定められたイスラエル12部族の一つを絶滅の危機へと追い込み、浅はかに誓ってしまった自分達の誓いの故に、その生き残りに助けの手をのべる事も出来ない状況に陥ってしまった。
人が立てた浅はかな取り決めによって、どうにもならない状況へと誰かを追い込んでしまう、あるいは、自分自身が追い込まれてしまうような事は、確かにある。
自分の勝手によって、どうにもならない状況に陥ってしまった時こそ、自分のやり方を捨て、主に伺うべきである。
しかし、それでも自分で編み出した苦肉の策を押し通すなら、さらに罪悪を増し加えてしまう事になる。
アブラハムも、子がなかなか生まれなかった時、妻が勧めた世の方法、苦肉の策に乗っかってしまい、その結果、苦々しい根を後々ずっと引きずる事になってしまった。
それに懲りた彼は、イサクの嫁となるべき女性が見つからないという時、世の方法に妥協する事なく、苦肉の策を考案する事もなく、ただ主の御心に適った方法、それも、世の常識で見るなら不可能に近いような方法を選択して、見事、ぴったりの女性・リベカの元へと導びかれた。
ひるがえって、士師記の時代の指導者達といえば、主に伺う姿勢も、御言葉に聞いて実行しようという思いも、一切無かった。
そのため、この悩ましい問題に直面した時、彼らは自分達で編み出した、こじつけ的な苦肉の策を採用し、さらに罪深い行いを重ねてしまう。
『それで彼らは言った、「年々シロに主の祭がある」。シロはベテルの北にあって、ベテルからシケムにのぼる大路の東、レバナの南にある。そして彼らはベニヤミンの人々に命じて言った、「あなたがたは行って、ぶどう畑に待ち伏せして、うかがいなさい。もしシロの娘たちが踊りを踊りに出てきたならば、ぶどう畑から出て、シロの娘たちのうちから、めいめい自分の妻をとって、ベニヤミンの地に連れて行きなさい。』(士師記21:19-21)
彼らがベニヤミン人の嫁を得るために利用したのは、なんと、主の祭りだった。
「主の祭り」に人々が行くのは、主の定めどおりに礼拝するためであり、祭りの中で女性達が踊るのも、主の恵みに感謝し、喜びを表現するためのはずだ。
日本では、踊りをするために祭りに来る人は多いが、イスラエルでは、祭りの主人公である「主」を喜ぶ故に、踊るものだが、当時のイスラエルの長老たちは「そうだ、主の祭の時に、娘たちが踊りに来る」などと、いらぬ事を思い立ち、主の祭りを強奪の場にしてしまう。
人の都合、人の思い立ちによって、礼拝が軽んじられ、強盗どもの巣にされてしまう。
それはキリストの時代にもあったし、また現代においても、自分の気に入った女性を探すために礼拝という場に来る人は、いる。
『もしその父あるいは兄弟がきて、われわれに訴えるならば、われわれは彼らに、『われわれのために彼らをゆるしてください。戦争のときにわれわれは、彼らおのおのに妻をとってやらなかったし、またあなたがたも彼らに与えなかったからです。もし与えたならば、あなたがたは罪を犯したことになるからでした』と言いましょう」。』(士師記21:22)
自分達は、もう誓ってしまった。ベニヤミン人に、自分の娘を嫁にやる事はしない、と。
しかし、意図的に嫁にやる、という形ではなく、「奪われた」という形を取るなら、自分達は誓いを破った事にはならない。
だから、その方法で行こう、という事なのだ。
それは、強引なこじつけである事には変わりない。
『ベニヤミンの人々はそのように行い、踊っている者どものうちから自分たちの数にしたがって妻を取り、それを連れて領地に帰り、町々を建てなおして、そこに住んだ。こうしてイスラエルの人々は、その時そこを去って、おのおのその部族および氏族に帰った。すなわちそこを立って、おのおのその嗣業の地に帰った。』(士師記21:23-24)
こうしてベニヤミンの血は絶えることなく、なんとか保たれた。
私達は、ここから知るべきである。
人の都合を、主の御言葉よりも優先させてしまうなら、尊ぶべき主の祭りさえも、強奪の場に変えてしまう程に、愚かで堕落した者になってしまう事を。
確かに、私達の愚かさの故に行き詰ってしまう事はあるだろう。
しかしそのような時こそ、アブラハムのように主に求め、主に信頼し、そうして主から最善のものが備えられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!