メッセージ - 何もかも失った末に届いた風の便り(ルツ記1:6-7)
礼拝説教メッセージ音声:何もかも失った末に届いた風の便り(ルツ記1:6-7):右クリックで保存
ナオミは当初、ユダヤのベツレヘムでエリメレクと結婚し、二人の息子にも恵まれ、幸せに暮らしていた。
しかしある時、飢饉が来て、パンが無くなり、モアブに移り住む事にした。
モアブに来た当初は、パンにありつけて、「来て良かったね」と家族内で語り合っていたかもしれないが、結論を言うなら、神の国を離れて異邦の地に来てしまった事が、全ての災いの始まりであった。
神の民にとって、「神の約束の地」を捨てて、肉的なものを求めて外へと行く事は、さらに酷い災いを招いてしまう事になる。これは聖書の法則である。
このような時は、神から賜った叱責から逃げずに、しっかり従順と忍耐を学ぶべきなのだ。
この一家は、目の前の困難から逃げ出したいばかりに、安易な解決方法に飛びついてしまい、 取り返しのつかない事になってしまった。
夫のエリメレクは死に、ほどなく、息子達も一人、また一人と死んで行き、ただナオミと義理の娘たちだけが残されてしまった。
『その時、ナオミはモアブの地で、主がその民を顧みて、すでに食物をお与えになっていることを聞いたので、その嫁と共に立って、モアブの地からふるさとへ帰ろうとした。そこで彼女は今いる所を出立し、ユダの地へ帰ろうと、ふたりの嫁を連れて道に進んだ。』(ルツ記1:6-7)
主の民から離れて10年が経ち、モアブの野で淋しく取り残されてしまったナオミに届いた、風の便り。
主がご自分の民を顧みて、食べ物をお与えになった、というこの風の便りは、彼女の心に、神の国である故郷を思い起こさせ、「わたしのもとに帰っておいで」という、主からの優しい語りかけとして響いただろう。
私達は、このような主からの語りかけを聞いていないだろうか。
聞いていながらにして、敢えて御心から離れたりしていないだろうか。
ナオミは、神の国に帰るまでに、10年もかかってしまい、その間、夫に先立たれ、息子にも先立たれてしまった。
放蕩息子(ルカ15:11-32)は、父の元に帰るまでに、何年かかったかは記されていないが、莫大な財産を全て放蕩し尽くし、何もかも失ってしまって、豚のエサでもいいから食べたいと思うまでに落ちぶれてしまった時、ようやく我に返った。
父なる神様の元を離れ、自分で好きなようにやって成功して行ける、と思っている「神の子」は多い。
しかし結局、神の子は、父なる神の元でしか生きられず、そこから離れるとするなら、何もかも使い果たす以外に無いのだ。
どん底まで落ちぶれて、自分がいかに神様から離れ、神の子たるに相応しい形から離れてしまったか。
我に返る所から、回復は始まる。
ナオミは、ついには帰る事にした。
大切なものを何もかも失い、結局、自分の拠り所は、主の元にしかないのだ、と思い起こして。
そこから、ナオミ自身と、そしてエリメレクの家の回復が始まる。
『わたしは確かに、エフライムが/こう言って嘆くの聞いた、『あなたはわたしを懲らしめられた、わたしはくびきに慣れない子牛のように/懲らしめをうけた。主よ、あなたはわたしの神、主でいらせられる、わたしを連れ帰って、もとにかえしてください。わたしはそむき去った後、悔い、教をうけた後、ももを打った。若い時のはずかしめが身にあるので、わたしは恥じ、うろたえた』。
主は言われる、エフライムはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ。みずからのために道しるべを置き、みずからのために標柱を立てよ。大路に、あなたの通って行った道に心を留めよ。イスラエルのおとめよ、帰れ、これらの、あなたの町々に帰れ。不信の娘よ、いつまでさまようのか。主は地の上に新しい事を創造されたのだ、女が男を保護する事である」。』(エレミヤ31:18-22)
キリストにあって神の子とされた私達がいるべき場所は、主・キリストの御元以外には無い。
もし離れているとするなら、ナオミのように帰り、また、もし離れているキリスト者がいるなら、彼らを主の御元へと連れ帰る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!