メッセージ - ナオミの信仰と人柄(ルツ記1:8-14)
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ナオミ達3人は、モアブの野を出立し、100キロ離れたベツレヘムへの帰途にあったが、進み行くにつれ、ナオミの心に重くのしかかってくるものがあった。
義理の娘達とは別れなくない。
しかし、このままこの若き未亡人たちを見ず知らずの土地へ連れて行っても、彼女たちの幸せは、全然見えて来ない。
『ナオミはふたりの嫁に言った、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家に帰って行きなさい。あなたがたが、死んだふたりの子とわたしに親切をつくしたように、どうぞ、主があなたがたに、いつくしみを賜わりますよう。どうぞ、主があなたがたに夫を与え、夫の家で、それぞれ身の落ち着き所を得させられるように」。こう言って、ふたりの嫁に口づけしたので、彼らは声をあげて泣き、ナオミに言った、「いいえ、わたしたちは一緒にあなたの民のところへ帰ります」。』(ルツ記1:8-10)
彼女たちは、ナオミからの別れの促しを、泣きながら断っているので、恐らく彼女たちは、自ら進んでナオミと一緒にイスラエルへ行こうとしたのだろう。
なんと麗しい嫁姑関係だろうか。
普通、嫁と姑の関係は、悪くなる事のほうが多く、しかも、義理の娘たちが外国の女であるなら、尚更のはずなのに。
ナオミは、よほどの人格者だったのだろう。
彼女のその人格の秘訣は、どこにあるのだろうか。
それはやはり、主への信仰にあると思われる。
サムソンは、苦しくなった時になってやっと「主(エホバ)」を呼び求めたものだが、ナオミはそれとは大違いで、「主(エホバ)がいつくしみを賜りますように」「主(エホバ)が落ち着き所を得させられるように」と、主(エホバ)の御名を何度も用いて、嫁達を祝福している。
彼女自身、この10年に起きた事を見ると、大切な人を取り上げてられてばかりで、むしろ主からの災いのほうが多いのに、主を悪く言う事も、恨む事も、決してしておらず、むしろ、「主の御手がわたしに臨んだ」と告白しているため、彼女は、悪いのは神の国を離れた自分達の側であり、主のさばきこそ正しいと認めているのだ。
主は、そのような信仰者を、決して悪いままにはしておかれない。
『しかしナオミは言った、「娘たちよ、帰って行きなさい。どうして、わたしと一緒に行こうというのですか。あなたがたの夫となる子がまだわたしの胎内にいると思うのですか。
娘たちよ、帰って行きなさい。わたしは年をとっているので、夫をもつことはできません。たとい、わたしが今夜、夫をもち、また子を産む望みがあるとしても、そのためにあなたがたは、子どもの成長するまで待っているつもりなのですか。あなたがたは、そのために夫をもたずにいるつもりなのですか。娘たちよ、それはいけません。主の手がわたしに臨み、わたしを責められたことで、あなたがたのために、わたしは非常に心を痛めているのです」。』(ルツ記1:11-13)
嫁たちは、ナオミの人柄に感銘を受け、イスラエルにはナオミのような人がたくさんいると思ったのかもしれない。
しかし律法では、モアブの者は、たとえ10代後の子孫でも、主の会衆に加わってはならない、と書いてあるし(申命記23:3)、このまま娘たちがイスラエルへ来るとしたなら、そこで幸いを得る望みは乏しい。
だから、彼女たちの幸いを思うなら、このままモアブへ戻した方が良いとナオミは思ったのだ。
『彼らはまた声をあげて泣いた。そしてオルパはそのしゅうとめに口づけしたが、ルツはしゅうとめを離れなかった。』(ルツ記1:14)
こうしてオルパは分かれて行ったが、ルツはすがりついて離れなかった。
主は、主の民の最も小さな者、弱い者のうちの一人にした事は、わたしにした事である、と言われる。(マタイ25:34-40)
その報いに漏れる事は、無い。
士師記の荒んだ時代の中、ひときわ輝く珠玉のような信仰者たちは、弱く、無名で、人から見ればつまらない者達だったかもしれない。
しかし主は、そのような彼女達をしっかりと見ておられ、主は彼女たちを通して、イスラエルの王を、ひいては、全世界の救い主を立てられる事に用いられるのだ。