メッセージ - マラ(苦い)になってしまったナオミ(ルツ記1:19-22)
礼拝説教メッセージ音声:マラ(苦い)になってしまったナオミ(ルツ記1:19-22):右クリックで保存
ナオミには10年ぶりの故郷ではあるが、この帰郷は、彼女にとって懐かしさよりも苦々しさに満ち満ちたものだった。
『そしてふたりは旅をつづけて、ついにベツレヘムに着いた。彼らがベツレヘムに着いたとき、町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、「これはナオミですか」。』(ルツ記1:19)
彼女たちの故に街中がこぞって騒ぎ立った、という事は、エリメレクの家はベツレヘムでも有名な、そして有力な一家だったのかもしれない。実際、エリメレクの一族に属するボアズの家も、町の中で有力者であった。
女たちは「これはナオミですか(KJVでは、Is this Naomi? )」と言っている。
それもきっと、彼女が10年前、ベツレヘムを出て行く前の状況から比べ、変わり果ててしまったのを驚いたからだろう。
『ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。』(ルツ記1:20-21)
10年前、彼女は、満ち足りて出て行った。他の人達よりも先んじていたような立場だったのに、今や彼女は、夫に先立たれ、息子達も財産も失ってしまった。
10年前、ナオミよりも乏しく、苦労していたような人達が、今や生活を持ち直し、子供達を産んで、彼らも成長しきている。
それに引き換え、今の自分は、ただ人の憐れみにすがるしかない。もはや、人と会う事もしたくない状況だっただろう。
しかし彼女は、「主がわたしを悩ました(KJVでは、「主が自分に敵対して証言している」)」と言っているので、彼女は、自分は主から敵対されるような事をされても仕方がない、という自覚があったのだ。
彼女たち一家は、神の定められた場所で主からの懲らしめを受ける事を避け、異邦の地へパンを求めて出て行ったがために、この災いが降った、と理解しているのだ。
私達も、この事から戒めを受けるべきである。
エリメレク一家が、パンを求めるがゆえに、神の定められた場所を離れ、わずか10年で人が驚く程落ちぶれてしまったのと同じように、キリスト者の中にも、教会での養いをつまらなく思ったり、金銀を求めるがゆえに、教会を離れ、10年も経たずに、落ちぶれてしまった、というような事を、周りで見ていないだろうか。
そのような事は、実に、ありうる話なのだ。
家族やパン、お金などで「満ち足りている」という快さ(ナオミ)を追求しても、それらは、いつ苦々しさ(マラ)になってもおかしくはない。
神の国を度外視して、世の金銀やパンを求めて、神の国を出て行くなら、なおさらだ。
神は、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされる。
それは、ただ単にその人を苦しめるためではなく、その人が懲らしめを受けて、神の国へと戻し、ついには、決して色褪せる事の無い「ナオミ」へと、その人を造り替えるためなのだ。
『見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。彼は傷つけ、また包み、/撃ち、またその手をもっていやされる。彼はあなたを六つの悩みから救い、/七つのうちでも、災はあなたに触れることがない。』(ヨブ5:17-19)
『こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈の初めにベツレヘムに着いた。』(ルツ記1:22)
ナオミは「主はわたしをから手で帰された」と言った。
しかし主は、彼女を決して手ぶらで帰していない。彼女は実は、七人の息子にも勝る、ルツを、連れ帰っている。
その事は彼女自身も、またルツ自身も、この時には分からなかった。
しかし、主を信頼し全能者の陰に拠り所を求めて来る人というものは、いかに頼りなく、力なく見えたとしても、主の前には何よりも尊く、世のいかなる力ある者のそばにいるよりも、安全なのである。