メッセージ - ボアズの家の成り立ち(ルツ記2:1-4)
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『さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。』(ルツ記2:1)
このボアズが、後にルツをめとり、ダビデの王族の家系を生み出して行くのだが、今回は彼の成り立ちを見ていきたい。
ボアズの父は、サルモン(名の意味は「平和を好む」)。母は、カナン人の元遊女・ラハブである。
ラハブはカナンに生まれ、悪しき価値観・悪しき習慣の中、遊女としてそれまでの人生を過ごして来た。
彼女はイスラエルのどの女性より、御言葉の知識は少ないはずであるし、子育てをするにしても、御言葉に従って正しくできる自信は無かったであろう。
士師記の荒んだ社会情勢の中、それでもこの一家は着実に栄え、ボアズは立派な信仰者、町の有力者として育って行った秘訣は、何だろうか。
それはやはり、主から多くを赦されたため、人一倍、多く主を愛したからではないだろうか。(ルカ7:41-48)
彼女は他のどのイスラエル人女性よりも律法を知らなかったし、そのような「たしなみ」を、身につけてこなかった。
しかし彼女は、こんなに罪深く汚れた自分が、こんなにも素晴らしい恵みに預かり、きよく秩序ある生活へと入れられたために、誰よりもその恵みに感動し、実感し、主に従って歩みたいと心底願う気持ちが誰よりもあったからこそ、下手なイスラエル人女性より、遥かに優れた子育てが出来たのだろう。
御言葉の知識も、たしなみも大切だが、主を愛する心のほうが、何より大事である。
『その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。』(ルツ記2:4)ボアズは、雇い入れている従業員との間で「主が共におられるように」「主が祝福して下さるように」という、祝福の挨拶を交わしている。
という事は、家庭の中で、この祝福の挨拶が日常的に取り交わされて、育っていたのだろう。
家庭内、あるいは従業員の間で、祝福の挨拶を取り交わす事は、有力者となる重要なコツの一つである。
逆に、文句や呪いの言葉を取り交わす事は、廃れてしまう原因となってしまう。
「人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる」からだ。(箴言18:20)
ボアズの母・ラハブは、在留異国人であった故、弱い立場の人には「憐れみのわざ」をするようにと、息子によく教えた事だろう。
実際ボアズは、在留異国人ルツに、喜んで恵みを落としている。
在留異国人や、孤児、やもめを憐れむのは、主のわざである。
「主のわざ」を「自分のわざ」とし、「主の思い」を「自分の思い」とする人は、主から祝福を受けないはずが無い。
その人が、さらにそのわざを為せるようにと、主がさらに増し加え、押入れ揺すり入れして与えられるからである。
士師記に登場する人達の荒んだ有り様に比べ、ルツ記に出てくる人々は、なんと幸いな人達だろうか。
イエス様は山上で言われた。
『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。』(マタイ5:3-9)
『モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。』(ルツ記2:2-3)
この、ルツとボアズの「はからずも(意図せず)」の邂逅は、将来、ナオミやルツにとって救いとなり、またイスラエルにとって、いや、全世界にとって救いの元となる。
その事はこの時、誰も知る由もない。
主は、人の「はからずも」を用い、人々の救いを紡ぎ出して行かれるのだ。