メッセージ - 買い戻しの権利のあるお方(ルツ記2:19-23)
礼拝説教メッセージ音声:買い戻しの権利のあるお方(ルツ記2:19-23):右クリックで保存
ナオミは、ルツが持ってきた23リットルという分量の大麦と、彼女が持って来た炒り麦とを見て、驚いた。
このようなものは、誰の助けも借りずに得られるものではない。
『しゅうとめは彼女に言った、「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか。あなたをそのように顧みてくださったかたに、どうか祝福があるように」。そこで彼女は自分がだれの所で働いたかを、しゅうとめに告げて、「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と言った。ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように」。』(ルツ記2:19-20)
ナオミは一見、何も人の役に立てない一老婦人に見えるかもしれない。
しかし彼女は、ルツ記中、最も偉大なものを多くの人々に惜しみなく与えた事に、気づいているだろうか。
その偉大なものとは「祝福」である。
実際ルツもボアズも、貧しく弱々しい時のナオミが祝福したその祝福の言葉通りになっている。
ナオミは、1章8-9節で、嫁達に「主があなたがたに恵みを賜わり、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と祝福した通りに、ルツはその後、ボアズという素晴らしい夫を得て、平和な暮らしができるようになった。
またナオミは、今回の箇所でもボアズを2度祝福したが、ボアズはその子孫からダビデ王が生まれ、王族の家系となり、さらに後には、キリストという偉大な王さえ生まれ出た。
ナオミが祝福した、その言葉どおりに嫁もボアズも祝福され、その祝福の恩恵の内にナオミは後生を過ごした。
いかに何も出来ないかのように見えても、また何も持っていないかのように見えても、そのくちびるから祝福の言葉を惜しみなく出すなら、その言葉どおりにその人自身が祝福されるのだ。
私達もぜひ、祝福の挨拶を自分のものとしたいものである。
『ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚(原文:ゴエル)のひとりです」。モアブの女ルツは言った、「その人はまたわたしに『あなたはわたしのところの刈入れが全部終るまで、わたしのしもべたちのそばについていなさい』と言いました」。』(ルツ記2:20b-21)
このゴエルというヘブライ語は、「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」とも訳す事が出来る言葉である。
律法では、身代を持ち崩してしまった人、落ちぶれてしまった人などを救うために、近親者が「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」となって、救わなければならない事が定められている。(レビ記25:23-34)
この、「買い戻し(あるいは「贖い」)」というキーワードは、ルツ記だけでなく、聖書全体を通じて非常に重要なキーワードであり、現代を生きる私達一人ひとりにも関わってくる、重要な言葉である。
現代の私達をも「買い戻して」くださるお方がおられる。
『あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたを”あがなわれる者(ゴエル)”は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。・・・あふれる憤りをもって、しばしわが顔を隠したけれども、とこしえのいつくしみをもって、あなたをあわれむ」とあなたを”あがなわれる(ゴエル)”主は言われる。』(イザヤ54:5,8)
主が律法で、買い戻しを律法で制定されたように、主は、全世界すべての人々の買い戻しをも、ご自身で定められた。
全世界すべての人々は、一体何から買い戻されなくてはならないのか。
それは、全人類重くのしかかっている「罪」と「死」という負債からである。
主は一体、何を代価として買い戻しをされるのか。
それは、神の御子・キリストの尊い命によって、すなわち、彼の十字架上の身代わりの死によって、である。
主キリストこそ、まことに私達を「あがなわれる者」であり、私達の家を絶やさぬ責任のある方、買い戻しの権利のある方である。