メッセージ - 真の落ち着き所へ入るための整え(ルツ記3:1-5)
礼拝説教メッセージ音声:真の落ち着き所へ入るための整え(ルツ記3:1-5):右クリックで保存
『時にしゅうとめナオミは彼女に言った、「娘よ、わたしはあなたの”落ち着き所(原意:家庭、憩いの場所、休みの場所)”を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。』(ルツ記3:1)
女性にとって落ち着き所、憩いの場所は、男性の左腕の下(雅歌2:6)、脇腹の所(創世記2:21-22)である。
当時、女性の落ち着き所である男性へと導く事は、親や、霊的指導者など、信仰的にしっかりしている人に任せるのが通例だった。
現代のいわゆる”婚活”は、いかに自分好みの、いかに条件の良い相手を見つけ、そのような人との結婚へといかに持っていくかという、自分主体な駆け引き的なものがあるが、”神の国の婚活”は、その真逆である。
神の国の婚活は、イサクの結婚のように、自分の意図や駆け引きは一切なく、霊的指導者や親に一任し、そして何より、主の御心を求めて行うものである。(創世記24章)
自分の好みや、目の慕わしさに従って結婚相手を選ぶとしたら、聖書では、大体良くない結末となってしまうからだ。(創世記6章、士師記14:3)
だから、自分よりも霊的見地が優れた親や指導者がいるなら、その指示を仰いだほうが良い。
『あなたが一緒に働いた女たちの主人ボアズはわたしたちの親戚ではありませんか。彼は今夜、打ち場で大麦をあおぎ分けます。それであなたは身を洗って油をぬり、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。ただ、あなたはその人が飲み食いを終るまで、その人に知られてはなりません。そしてその人が寝る時、その寝る場所を見定め、はいって行って、その足の所をまくって、そこに寝なさい。彼はあなたのすべきことを知らせるでしょう」。』(ルツ記3:2-4)
独身の女性が、男性の寝ている所をまくって、そこに入って寝る。
それは神の民である私達が聞くなら、眉をひそめるような事と思われるが、どういう事だろうか。
ナオミが指示したのは「足の所をまくってそこに寝なさい」「そうすれば、後に為すべき事を彼から教えてもらえる」であり、決して体で誘惑しなさい、というような事ではなかった。
ナオミは知っていたのだ。ボアズは分別を失うような男性ではない、むしろ、律法にかなった事を求めたルツに、その後彼女が為すべき事を、きっと教えてくれるだろう、と。
そして律法においては、ルツが、買い戻しの権利のある男性・以外の所へ行くほうが、不真実なのだ。
クリスチャンである私達には、積極的に飛び込んでいくべき「買い戻しの権利のある御方」がいる。それは、キリストである。
私達も、キリストが寝ている所に、すなわち、十字架の死の眠りについているキリストへと寄り添い、彼の死と一体化するべきだ。
そうするなら、キリストの復活と共に、私達も復活するのだ。(ローマ6:5)
ルツはナオミから「身を洗って」「油をぬり」、「晴れ着をまとって」、買い戻しの権利のある人・ボアズの所へ行くようにと指示したが、私達も、キリストという真の買い戻しの権利のあるお方の御前に出るために、「身を洗って」「油をぬり」、「晴れ着をまとって」行くべきである。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26)
私達は御言葉の水によって心と霊とを洗い清め、そして聖霊の油を塗り、キリストが与えて下さった贖いの衣、すなわち、キリストの裂かれた体を身にまとって、キリストの元へと行くのだ。
ヤコブが父イサクから祝福を受ける時、兄のふりをして、動物の毛衣をまとったように、また、エステルが王の元へ行く時、王妃の衣装を身にまとったように。
身に何もまとわないで、そのまま行くとしたら、外の暗闇に放り出されてしまう。(マタイ22:11-13)
『ルツはしゅうとめに言った、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」』(ルツ記3:5)
ルツは、霊的指導者であるナオミの言う事に従った。
それで彼女は、ますます幸いを得ていく。