メッセージ - 祝福を積み立てるサムエルと滅びを積み立てるエリの家(1サムエル記2:18-26)
祝福を積み立てるサムエルと滅びを積み立てるエリの家(1サムエル記2:18-26)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-2-5 23:50
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『サムエルはまだ幼く、身に亜麻布のエポデを着けて、主の前に仕えていた。母は彼のために小さい上着を作り、年ごとに、夫と共にその年の犠牲をささげるために上る時、それを持ってきた。(1サムエル記2:18-19)
サムエルの父母は、息子サムエルとは年に一度、捧げ物をする時にしか会えなかったが、母はサムエルのために真心を込めて上着を作り、それを年に一度、サムエルに逢える時に着せてやり、サムエルはそれを身に帯びて御前に仕え、こうして彼は、心も体も霊も健全に育っていった。
『エリはいつもエルカナとその妻を祝福して言った、「この女が主にささげた者のかわりに、主がこの女によってあなたに子を与えられるように」。そして彼らはその家に帰るのを常とした。こうして主がハンナを顧みられたので、ハンナはみごもって、三人の男の子とふたりの女の子を産んだ。わらべサムエルは主の前で育った。』(1サムエル記2:20-21)
祭司は、「子を捧げたほうの妻」すなわちハンナを祝福したのであり、ペニンナではなかった。
ペニンナのように、礼拝という場や捧げ物を、人を煩わせる材料にするような者は、祝福から漏れてしまい、衰えていくのだ。
サムエルは、年に一度しか親に会えず、場所的には離れていたが、愛されている実感と、その愛と真心の実体である手作りの服と、そして親の祈りによって、健全に成長して行った。
それに引き換え、祭司エリの子達は、全く逆の性質を身に付けて行った。
『エリはひじょうに年をとった。そしてその子らがイスラエルの人々にしたいろいろのことを聞き、また会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝たことを聞いて、彼らに言った、「なにゆえ、そのようなことをするのか。わたしはこのすべての民から、あなたがたの悪いおこないのことを聞く。』(1サムエル記2:22-23)
エリは、息子達の悪行を、人づてに「聞いた」という事は、彼らには普段から親子の会話や交わりが無かったようである。
彼らは共に、シロの主の家で祭司の務めをしていたというのに、心は遠くはなれていたようだ。
エリの子達は、人々が主に捧げる捧げものを食い物にしたばかりでなく、会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝るという事さえした。
女たちは、主の御そば近くに居たい心・主に捧げ仕えたい心をもって、幕屋の近くで奉仕していたはずなのに、エリの子らはそれさえ食い物にし、踏みにじった。
祭司の子によるこのような悪行は、アロンの子ナダブとアビフのように、主の御前から火が降って来てもおかしくはない状況であるが、主の憐れみは、まだ注がれていた。
『わが子らよ、それはいけない。わたしの聞く、主の民の言いふらしている風説は良くない。もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」。しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。主が彼らを殺そうとされたからである。』(1サムエル記2:24-25)
エリはこのように戒めはしたのに、子達は、全く親や権威を、そして主を恐れるという事なく、行ないも改めなかった。
大人になってからでは、厳しい言葉で戒めたり、また戒めを受け入れて行状を改めるという事が、中々難しくなってしまう。だから箴言にある通り、子の内から、しっかり御言葉によって訓戒しつつ、教育する事が大事である。
『望みのあるうちに、自分の子を懲らせ、これを滅ぼす心を起してはならない。・・・子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言19:18、23:13-)
このように、人々が主に捧げたい心を持って御前に捧げ物をする度に、罪を犯し、人々をつまづかせ、それを戒めても、行ないを改めないからには、もはや、一刻の猶予なく、彼らを祭司の座から取り除けるべきなのに、エリはそうせず、そのまま放置した。
エリは98歳になっても体が重かった(4:18)、という事は、もしかしたら彼も、息子達の持ってくる脂つきの肉に、日常的にあやかっていたのかもしれない。
とにかく彼らはこうして、ますます滅びの炭火を、自分達の頭上に積み上げていく。
『わらべサムエルは育っていき、主にも、人々にも、ますます愛せられた。』(1サムエル記2:26)
サムエルは、このような環境の中であっても、悪く染まる事が無かった。
それは、信仰の父母の御言葉に基づく愛や祈りの故だろうか。あるいは、生まれながら頭にかみそりを当てられず、他の人とは違う、聖別された者という意識ゆえだろうか。
とにかく彼は、主の御前に誠実に仕えつつ育って行った。
私達もサムエルのように、邪悪な周囲に流されず、ただ主を見上げ、自分がキリストにあって聖別された者、神の子とされた者であるという自覚を持ちつつ、自らをきよく保ち続けたい。