メッセージ - サムエルの召命(1サムエル記3:1-10)
礼拝説教メッセージ音声:サムエルの召命(1サムエル記3:1-10):右クリックで保存
『わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。』(1サムエル記3:1)
サムエルは少年に成長し、神と人とに愛されつつ、主の御前で仕えていたが、祭司エリには、御言葉が示される事も、主からの幻も、まれになってしまっていた。
『神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、』(1サムエル記3:3)
シロに主の箱があった当時、そこはモーセの時代の「幕屋」の形式ではなく、柱がある神殿のような所だったようである。(1:9)
神の箱も手軽に担ぎ出されたりしていたので、当時は、律法で定められた通りではなく、自己流的な神殿だったのかもしれないが、夜の間はともしびを灯す定め(出エジプト記27:21)は守られていたようである。
そこに聖所と至聖所を区切る幕があったかどうかは定かでないが、サムエルは、主の箱の近くで寝る事を常としていた。
そんなある日、彼に突然、主からお呼びがかかる。
『主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。』(1サムエル記3:4-5)
主が呼ばれたのに、サムエルはエリが呼んだと勘違いして、エリの元に走って行った。
主は、夢や幻などで現れる事もあるが、サムエルの場合、誰かが語りかける声のような形で、主からの語りかけを聞いた。
エリとしても、サムエルとしても、何か夢でも見て、勘違いしたのだろう、日常でも有り得る事だとして、この場を収めようとしたが、主は、再びサムエルを呼ばれる。
サムエルは最初と同様、エリの所へ行って、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」と言ったが、エリは「子よ、わたしは呼ばない。もう一度寝なさい」と、同じように返事をした。
お互い、少しおかしいな、くらいは思ったかもしれない。
『サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。』(1サムエル記3:7)
サムエルは、「主に仕え」ていはいた。少年でもできる雑用を働いていたかもしれないが、「主から言葉を受け、それを人に伝える」という「預言者」としての仕事は、当時、エリさえまれだったので、彼はまだ主を知らなかった。
私達も、主が語りかけておられるのに、あるいは主を知らないがゆえに、それを偶然で片付けたり、誰かが何かしたのだろうなどとして、日常の一部として片付けてしまったりする事があるかもしれない。
『主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。』(1サムエル記3:8-9)
サムエルは3度目の事なので、おかしいとは思たであろう。
しかしそれでも、声を無視する事なく、また声に声だけをもって返答するでもなく、顔と顔を合わせて話するために、エリの所へと再び行った。
これは、神の言葉を預かって人に届ける「預言者」として、重要なたしなみである。
それにしても主はなぜ、最初からサムエルに自らを明かさなかったのだろう。
モーセの時のように、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主である」と、最初から自己紹介していたなら、もっと簡単に話が進んだであろうに。
しかし、もしもそうしていたなら、サムエルはエリを何度も起こしに行く事は無かっただろうし、エリも、サムエルに主が現れた、と、強く印象づけられる事も無かっただろう。
人の目に、まわりくどいと思えるような方法を、主が取られる時には、それなりの理由があるのだ。
『主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。』(1サムエル記3:10)
サムエルは、エリに教えられた通りの正しい受け答えをた。
「しもべ」は「聞く」、この姿勢は預言者だけでなく、私達神の民全員に、とても重要な姿勢である。
ヨシュアも、城塞都市エリコを攻略しようとしていた時、一人の人が抜身の剣を持ってこちらに立っていたので、声をかけた。
「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか。」(ヨシュア記5:13)
彼は、自分が話している相手が、主の軍の将だと知った時、サムエルと同じように、正しい対応を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(ヨシュア記5:14)
「わが主は」「しもべに」何を告げようとされるのか、と、ひれ伏し拝して伺う。
そう、主こそ語る側であり、私達こそ「しもべ」、そして聞く側である。
だから、主にいのり倒して、こちらの願いを無理やり聞いてもらおうという態度は、正しいものではない。
昨今の日本も、サムエルやエリの時代のイスラエルのように、主の御声や、御言葉が、公な所で語られる事は、ほぼ無い。
そんな中において、私達キリスト者は、主のしもべとして、また、サムエルのような主の働き人の予備軍として、いつも聞く姿勢を持っていたい。
主は何も、奇跡やしるし、幻などの内でしか語られないものではなく、いつも語られている。
それは、あまりに日常な中なので、最初のサムエルやエリが取ったように、日常に有り得る事として片付けてしまっているかもしれない。
しかし主は、日常の御言葉において、また、牧師の聖書メッセージや、兄弟姉妹との御言葉を交えた分かち合いなどを通して、ひっきりなしにご自身を示しておられる。
そうした主の御声を逃す事が無く、御旨を悟ってその通りに歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!