メッセージ - サムエルのはじめての預言 - エリの家への災い(1サムエル記3:11-21)
サムエルのはじめての預言 - エリの家への災い(1サムエル記3:11-21)
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- 執筆 :
- pastor 2015-2-11 23:50
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主が、サムエルに初めて現れ、告げられた言葉の内容は、育ての親とも言える祭司エリの家に対する災いの預言であった。
『その時、主はサムエルに言われた、「見よ、わたしはイスラエルのうちに一つの事をする。それを聞く者はみな、耳が二つとも鳴るであろう。その日には、わたしが、かつてエリの家について話したことを、はじめから終りまでことごとく、エリに行うであろう。
わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。それゆえ、わたしはエリの家に誓う。エリの家の悪は、犠牲や供え物をもってしても、永久にあがなわれないであろう」。サムエルは朝まで寝て、主の宮の戸をあけたが、サムエルはその幻のことをエリに語るのを恐れた。』(1サムエル記3:11-15)
主のこの言葉は、サムエルに対して、ではなく、エリとその家に向けて主が発せられた、二度目の警告である。
一度目は、直接エリに対して語られたが、その”一度目”から、少年サムエルがある程度成長するくらいの、少なからぬ時が経っていた。
しかしエリはその間、子達が神を汚している事を「抑止(カーハー)」しなかった。(13節)
親は、子が罪を行った時、口先で「そんな事してはダメ」と言うだけでは、足りない。
その罪を「抑止(カーハー)」し、その罪の行動を止めさせなければ、意味が無いのだ。
『しかしエリはサムエルを呼んで言った、「わが子サムエルよ」。サムエルは言った、「はい、ここにおります」。エリは言った、「何事をお告げになったのか。隠さず話してください。もしお告げになったことを一つでも隠して、わたしに言わないならば、どうぞ神があなたを罰し、さらに重く罰せられるように」。そこでサムエルは、その事をことごとく話して、何も彼に隠さなかった。エリは言った、「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」。』(1サムエル記3:16-18)
エリはサムエルに、主からどんな言葉が与えられたのか、それを教えないなら、神が重く罰せられるように、と、かなり厳しい口調で、教えるように命じた。
この事は、サムエルにとって益だった。なぜなら、預言者たるものは、どんなに語りづらい言葉であっても、主が与えて下さった言葉は、何であれ語るべきだからであり、最初にその訓練が出来たからだ。
サムエルが全てを隠し立てせず、全て話し終わった時、エリの「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」と言った。
一見、信心深そうに見える言葉ではあるが、このような「主に食い下がらない姿勢」「主との交わりを断絶してしまうような姿勢」は、滅びる者に共通する性質である。
自分に対する、災いの言葉が与えられたなら、アブラハムやモーセ、ダビデのように、主に赦しを乞い願い、あくまで食い下がるために、主と対話を続けるべきである。(創世記18章、出エジプト記32章、詩篇51編)
エリに対する二度目の警告は、彼にとって意外な人物、彼に仕えている少年・サムエルを通して、為された。
しかし結局、彼らは「どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」と言ったきり、全く改めなかった。
それでも、彼らに「成る」と言われた災いが実現するは、もっと後である。その間、主はずっと、彼らが立ち返る事を待っておられたのだろう。
もし災いの預言が与えられたとしても、それを聞いて、悔い改めるのなら、その災いは実現しないものだ。
イスラエル史上最悪の王・アハブでさえ、預言者エリヤから、主から災いを降されるという預言を聞いた時、断食をし、荒布を着て伏し、打ちしおれてへりくだった結果、主は彼が生きている間は、災いを降さないように、主はして下さった。(1列王記21:17-29)
また、邪悪な町ニネベも、ヨナの説教によって悔い改め、上から下まで断食をし、主の前にへりくだった所、警告されていた災いは降されなかった。
主は、悪者が滅びるのを望まれず、悔い改めて悪から離れるのを待たれるお方だ。(エゼキエル18:23-32)
サムエルが、主から初めて託された言葉は、育ての親に伝えるには、厳しい内容であった。
彼はまだ少年で、祭司エリとその子達が、主の前にどんな悪いことをしたのか、実感も、理解も、出来ていなかっただろう。
しかし、自分が理解できる事であれ、できない事であれ、あるいは幸いな内容であれ、災いの内容であれ、主から与えられた言葉は、そのまま、正確に人に伝える事は、預言者として必須のたしなみである。
彼はこの最初の”預言者”としての仕事を正しく全うした結果、主はさらに彼を用いられるようになった。
『サムエルは育っていった。主が彼と共におられて、その言葉を一つも地に落ちないようにされたので、ダンからベエルシバまで、イスラエルのすべての人は、サムエルが主の預言者と定められたことを知った。主はふたたびシロで現れられた。すなわち主はシロで、主の言葉によって、サムエルに自らを現された。こうしてサムエルの言葉は、あまねくイスラエルの人々に及んだ。』(1サムエル記3:19-21)
祭司エリの時代は、神の宮シロにおいて主のまぼろしが示されるのは、まれになっていた。
サウル王の時もそうであったが、指導者が不従順であるなら、主の示しは得られなくなってしまうのだ。
しかし、主に忠実なサムエルの登場によって、再び主のことばが再び、イスラエルに示されるようになった。
そうして与えられる主の御言葉は、決して虚しく地に落ちるものではない。
必ずいのちを生み出し、主の言い送った事を必ず実現させる。(イザヤ55:10-11)
夢やまぼろしなど「見えるもの」を追い求める人は、騙されやすいが、御言葉によって養われる人は、着実にいのちを伸ばして行く。
そして御言葉によって養う人は、決して誤った導きをする事は無い。
サムエルのように、御言葉によって良く養われ、御言葉によって人を養う皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!