メッセージ - 誰がこの聖なる主の前に立ち得よう(1サムエル記6:13-21)
誰がこの聖なる主の前に立ち得よう(1サムエル記6:13-21)
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- 執筆 :
- pastor 2015-2-19 23:50
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『時にベテシメシの人々は谷で小麦を刈り入れていたが、目をあげて、その箱を見、それを迎えて喜んだ。』(1サムエル記6:13)
神の箱は、わずか七ヶ月でイスラエルに戻って来る事となった。
この町の人達は、牛車がひとりでに運んで来たものが「神の箱」であると認知していたが、このベテ・シェメシュという町は、ナフタリ族へくじによって割り当てられた相続地であり(ヨシュア記19:38)、そして、大祭司アロンの子孫達へと放牧地が割り当てられた町でもある。(ヨシュア記21:16)
つまり、神の箱の正当な扱い方を知っていた(はずの)奉仕者たちが住む町であり、この町に神の箱が帰って来たのは、まさに導きといえる。
『ペリシテびとが、とがの供え物として、主に償いをした金の腫物は、次のとおりである。すなわちアシドドのために一つ、ガザのために一つ、アシケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。また金のねずみは、城壁をめぐらした町から城壁のない村里にいたるまで、すべて五人の君たちに属するペリシテびとの町の数にしたがって造った。主の箱をおろした所のかたわらにあった大石は、今日にいたるまで、ベテシメシびとヨシュアの畑にあって、あかしとなっている。』(1サムエル記6:17-18)
ペリシテの五つの町の内、ガザとアシュケロンには、主の災いが降った記述は無いが、もしかしたらそこにも災いが降っていたのかもしれない。
とにかくペリシテの祭司や占い師達は、ペリシテの領主の数・都市の数に従い、五つの金のはれ物の像と、五つの金のねずみの像を作らせて、それをイスラエルの神に「償い」として捧げさせた。
『車はベテシメシびとヨシュアの畑にはいって、そこにとどまった。その所に大きな石があった。人々は車の木を割り、その雌牛を燔祭として主にささげた。レビびとは主の箱と、そのかたわらの、金の作り物をおさめた箱を取りおろし、それを大石の上に置いた。そしてベテシメシの人々は、その日、主に燔祭を供え、犠牲をささげた。ペリシテびとの五人の君たちはこれを見て、その日、エクロンに帰った。』(1サムエル記6:14-16)
彼らは最初、主の箱がこのように戻って来た事を喜び、ペリシテ人もまた、災いの元凶が自分達の元から去った事に胸をなでおろした事だろう。
これで一件落着、かというと、そうではなかった。
この神の箱は、そこベテ・シェメシュの町にも、災いをもたらす事となってしまうのだ。
『ベテシメシの人々で主の箱の中を見たものがあったので、主はこれを撃たれた。すなわち民のうち七十人を撃たれた。主が民を撃って多くの者を殺されたので、民はなげき悲しんだ。』(1サムエル記6:19)
撃たれた人の数は、口語訳では「七十人」となっているが、別の訳では「五万七十人」(新改訳、KJV)、さらに別の訳では「五万のうち七十人」(新共同訳)となっている。
どうしてこんなに訳が分かれるかというと、ここのヘブライ語原典を字義通りに並べると「七十人、五十千人」、これをどのように訳出すれば良いのか分からないからだ。
いずれにせよ、ベテ・シェメシュの人達は非常に大きな痛手を受け、イスラエルの神・主への大きな恐れが沸き起こった事は確かである。
なぜこのような災いがイスラエルにも起こったのか。
それは、神の箱を正当に扱う術を知っているはずの人達がそれをせず、主の箱の中を見るような不敬を犯したからである。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。』(ガラテヤ6:7)
神はまさに聖なる神、義なる神であり、イスラエルに対してだけでなく、異邦人に対しても公平にさばきを行われる方である。
私達は、主の「親しさ」を「馴れ馴れしさ」と勘違いし、主を軽んじてはならない。
また、主があまりに憐れみ深い故に「赦され慣れ」して、自分たちはただ赦される側、何をしても良い側、そして主はただ身代わりの痛みを受けてもらう側として怠慢に陥ってはならない。
そのような事を敢えてし続けるなら、主はその者を懲らしめ、強制的に正しい立ち位置へと戻される。
『ベテシメシの人々は言った、「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか。主はわれわれを離れてだれの所へ上って行かれたらよいのか。』(1サムエル記6:20)
まさに、聖なる神・主の御前に立つ事ができる者は、誰もいない。
主は、神の箱が奪われそうになった時タイミングでペリシテ人を打つ事は出来たであろう。
あるいは、イスラエルが神の箱を縁起物でも持ち出すかのように軽々しく聖所から運び出そうとしたタイミングで打つ事も出来たであろう。
しかし主は敢えて人々の為すがままにし、この4章以降の一連の出来事を起こさせ、その上で、イスラエルにもペリシテにも、ご自身の聖を燦然と表されたのだ。
その結果、イスラエルもペリシテも、神である主は恐るべき方であり、正当に敬う事をしないなら、こんなにも恐ろしい目に遭う、という事を、徹底的に思い知らされた。
こうしてイスラエルの心は、神を正当に恐れ敬う健全な心へと、造り変えられてゆくのだ。