メッセージ - サレプタのやもめ - 死をも超えた宴会(1列王17:17-24)
サレプタのやもめ - 死をも超えた宴会(1列王17:17-24)
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前回、最後のパンを預言者エリヤに渡したサレプタのやもめの行ないを見た。
困難の時代、主は、信仰者エリヤ一人だけを養う事で完結するのでなく、やもめの信仰をも用い、それぞれ分に応じた信仰が、この一同を養った。故に神の国の事柄は、主と、信仰者「たち」との共同作業であり、それによって主の共同体全体が潤い、主の恵みと栄光が満ち満ちて行き、喜びが溢れるものなのだ。
困難の時代でも一同の粉と油は尽きる事なく、長い間彼らを養ったが、”主の宴会”はそれに終わらない。
主に守られ養われていたはずの一同だが、やもめの息子は病気になって、それが元で死んでしまった。
『彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。』(1列王記17:18)
彼女は、災いが起きた原因を、誰か他の人や世情から見出そうとするのではなく、自分の内から見出そうという性質があった。そのように自分の罪や弱さを認める人は、救いから遠くはない。
主が私達に現れたのは、罪を思い知らせて、愛する人を取り上げ死なせるためではないはずであり、日毎主に養われてはいても、望ましくない死が訪れる事はある。主に養われ、救われたはずなのに、なぜそのような死が来るのか。『イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」』(ヨハネ11:4)
エリヤは祈った。『「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。』(21-22節) エリヤは、長らく雨が降らない事を預言した後、その通りなるよう祈り、また、後に雨が降ると預言した後も、言葉どおり成るよう祈ったようだ。(ヤコブ5:13-20)
主から預かった言葉を発したなら、それでそのまま終わり、ではなく、エリヤのようにそれについて祈るべきである。そして親しい人に災いが下ったり、あるいは罪に陥ったなら、それも真心から祈るべきだ。
神の国は、聖徒と神との対話の内に成って行くものである。主にあきらめて対話しない姿勢、主との交わりを断絶してしまうような姿勢は、滅びる者に共通する性質である。御言葉(ロゴス)に自身の信仰や感情、呻きを混ぜて発するなら、それは実体となり、人にいのちを与え、神の栄光が現れて行くのだ。
『主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。・・・「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました。」』(22-24節)
義人の信仰による祈りは、病む人を回復させ、主はその人を立たせて下さり、またその人が罪を犯していたならその罪は赦される。(ヤコブ5:15) エリヤは私達と同じような人である。しかし彼が雨が降らないように祈ると三年六か月の間雨が降らず、また祈ると雨を降らせ、地はその実を実らせた。(同17-18)
だから、心折れる事なく、いつも祈るべきである。それにしても、なぜこれらの事が起きたのだろう。主はエリヤの世話をしたやもめの子を死なせずにおく事も当然できたはずだが、なぜそのようにされたのだろうか。
イエス様は、彼の愛されたラザロが病気である事を聞いても、敢えて2日留まり、ラザロの所に到着した時には、もう死んで4日経過していた。イエス様はなぜすぐに行かなかったのだろう。
それは「死ぬより大事」な事を人々に教えるためである。病が癒されるとか、死人が生き返るとか以上に重要な事がある。その大事な事とは、イエス様こそよみがえりであり、いのちであり、彼を信じている者は、死んでも生きる事だ。イエス様こそ、生死を超えたいのちの君である事だ。
もしイエス様が、エリヤが、インスタントに癒していたなら、その大事な事を人々は知らないままだっただろう。
やもめはこの事を通して、主の言葉が真実である事を知ったし、ラザロをよみがえらせてもらった人々もイエス様こそいのちの君である事を知った。主を恐れ愛する人には、死をも超えた宴会が待っているのだ。
パウロもペテロも、祈ったら死人がよみがえったが、誰が癒され誰が癒されないか、誰が蘇らされ誰がされないか、なぜあの人には奇跡が起こり、この人には起きないのか、とった議論は、実は無意味である。
いのちは主のものであり、人がいつまで生き、いつ死ぬかは、いのちの君でイエス様が計っておられる。
私達キリスト者は、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬのみである。