メッセージ - 不純物は精錬されて消え失せる(イザヤ1:21-31)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
不純物は精錬されて消え失せる(イザヤ1:21-31):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書1章21-31節を基に、イスラエルの堕落と主の裁き、そして悔い改めと贖いについて語られたメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書1:21-31
【戒めの言葉】
教会に通いながら罪を悔い改めず、同じ罪を繰り返す者は、不純物として取り除かれる危険がある。
【勧めの言葉】
真の悔い改めと、それにふさわしい実を結ぶことが求められている。
【悔い改めの促しの言葉】
自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、涙を流して悔い改め、二度と同じ罪を犯さないと決心することが必要。
【***詳細***】
今日の御言葉は、イザヤ書1章21節から31節までです。この箇所は、イスラエルに対する主の失望と、悔い改めへの促しから始まっています。
主は、かつて正義と公正が宿っていたエルサレムが、今や不義に満ちた街となってしまったことを嘆いています。「かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか。昔は公平で満ち、正義がそのうちにやどっていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった」(21節)と主は言われます。
主は、イスラエルの堕落を具体的に指摘されます。「お前の銀は金かすになった。お前の良い酒も水で割ってある」(22節)。これは、純粋なものの中に不純物が混ざってしまった状態を表しています。本来は良いはずの銀や葡萄酒が、混ぜ物によって価値を失ってしまったのです。
さらに主は、指導者たちの腐敗を非難されます。「お前のつかさたちは反逆者、盗人の仲間。皆、賄賂を愛し、報酬を追い求める」(23節)。正義を守るべき立場にある者たちが、逆に不正を働いているのです。
このような状況に対し、主は厳しい裁きを宣言されます。「ああ、私のあだに思いを晴らし、私の敵に復讐しよう」(24節)。主は、イスラエルの中にある敵、つまり主に逆らう者たちを裁かれるのです。
しかし、主の目的は単なる破壊ではありません。「しかし、お前の上に再び我が手を伸ばし、お前の金かすをあくのように溶かし、その浮きかすを皆のぞこう」(25節)。これは、純粋な銀を得るために不純物を取り除く精錬の過程を表しています。主は、イスラエルを清めて、本来あるべき姿に戻そうとされているのです。
「 こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、あなたの議官を初めのとおりに回復する。」(26節a)。主は、イスラエルの指導者たちを正しい者に立て直そうとされています。
そして、清められたイスラエルの将来について、主は希望に満ちた約束を与えられます。「その後あなたは正義の都、忠信の町ととなえられる」(26節b)
この箇所から、私たちは重要な教訓を学ぶことができます。私たちもまた、教会に通い、クリスチャンとして生活しているつもりでも、知らず知らずのうちに不純物を混ぜてしまっているかもしれません。純粋な信仰が、世俗的な考えや行動によって汚されてしまう危険性は常にあるのです。
主は、「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる」(27節)と言われます。ここで重要なのは、「悔い改める者」という言葉です。単に教会に通うだけでなく、真に悔い改め、主の前に立ち返る者が贖われるのです。
バプテスマのヨハネの言葉を思い出しましょう。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:8)。悔い改めは単なる言葉だけではなく、具体的な行動の変化を伴うものでなければなりません。
私たちは、自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、心を裂き、涙を流して悔い改めなければなりません。そして、二度とその罪を犯さないと決心し、主の助けを求めて歩む必要があります。
主は、「背く者は、罪人と共に破滅し、主を捨てる者は、失せ果てる」(28節)と警告されます。悔い改めない者、主を捨てる者には厳しい裁きが待っているのです。
しかし、主の目的は私たちを滅ぼすことではありません。主は、私たちを清め、純粋な信仰を持つ者としたいのです。「 あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、はずかしめを受け、みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。 」(29節)。ここでの「樫の木」や「園」は、偶像礼拝の場所を指していると考えられます。主は、私たちが頼りにしている偽りの神々や世俗的な価値観が、実は何の役にも立たないことを示されるのです。
「つわものがあさくずに、そのわざはひばなになり、そのふたつとももえたってこれをけすものがいない」(31節)。ここでの「つわもの」は、自分の力を頼みにする者を表しています。しかし、主の前では、人間の力など何の価値もありません。
私たちは、自分の中にある不純物、主の御心に反するものを取り除いていただく必要があります。それは時に痛みを伴う process かもしれません。しかし、それによって私たちは純粋な信仰を持つ者となり、主に用いられる器となることができるのです。
【結論】
今日の御言葉は、私たちに厳しい警告と同時に、希望に満ちた約束を与えています。私たちは、自分の罪を認識し、真摯に悔い改め、主の清めを受け入れる必要があります。そうすることで、私たちは「正義の街、忠心な都」の住民として、主に喜ばれる者となることができるのです。主の恵みによって、私たちが日々、悔い改めと信仰の歩みを続けていくことができますように。アーメン。