メッセージ - 信仰の二人は万を打つ(1サムエル記14:6-15)
礼拝説教メッセージ音声:信仰の二人は万を打つ(1サムエル記14:6-15):右クリックで保存
『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル14:6-7)
ヨナタンは、主が何かをして下さると期待して、出て行った。
主が御業をなされる上では、人の頭数の多さより、むしろ、その集まりの、主を信頼する純粋さこそが、重要な鍵となる。
不信仰な人間の頭数の多さは、逆に邪魔だ。
実際主は、エジプトを出た男子六十万全部を約束の地へ導き入れたのではなく、純粋な信仰を保ったヨシュアとカレブの二人だけを入れたし、また、ギデオンの時は32000人を、主は「多すぎる」として、300人へと絞った。
集いの中に、不信仰の者が混ざると、信仰者の足を引っ張る。
だからヨナタンは、祭司を呼び寄せても何もしない父サウルや、サウルと一緒にただ震えて待っているだけの人々には何も告げずに、出て行ったのだ。
『こうしてふたりはペリシテびとの先陣に、その身を現したので、ペリシテびとは言った、「見よ、ヘブルびとが、隠れていた穴から出てくる」。先陣の人々はヨナタンと、その武器を執る者に叫んで言った、「われわれのところに上ってこい。目に、もの見せてくれよう」。ヨナタンは、その武器を執る者に言った、「わたしのあとについて上ってきなさい。主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」。』(1サムエル記14:11-12)
大軍の敵を前に、姿を現した若者二人。
信仰なき者達には、命知らずの自殺行為であろうが、ヨナタンにとってはたとえ二人であろうと、イスラエルを代表した戦いであり、そして、敵の嘲りの言葉は、彼には「主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」という勝利のしるしだった。
『そしてヨナタンはよじ登り、武器を執る者もそのあとについて登った。ペリシテびとはヨナタンの前に倒れた。武器を執る者も、あとについていってペリシテびとを殺した。ヨナタンとその武器を執る者とが、手始めに殺したものは、おおよそ二十人であって、このことは一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分の内で行われた。』(1サムエル記14:13-14)
岩をよじ登って来る者を迎え撃つ。それは、赤子の首をひねるよりも簡単と思われるが、どういう戦いが展開されたのか、なんと、よじ登っていったヨナタンのほうが、ペリシテを二十人も打ったのだ。
「一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分」、それは英語聖書では半エーカー、すなわちおよそ60mx30mほどの場所である。
ちなみに、ギリシャ語「エーカー」は「くびき」を意味する言葉で、ひとくびきの牛が一日間で耕すことが可能な土地の広さを一エーカーとして定めたとされている。
『そして陣営にいる者、野にいるもの、およびすべての民は恐怖に襲われ、先陣のもの、および略奪隊までも、恐れおののいた。また地は震い動き、非常に大きな恐怖となった。』(1サムエル記14:15)
こうして、たった二人の信仰ある者の行動が、ペリシテの陣営全体を、震えおののかせた。
また、地は震い動き(the earth quaked)、非常に大きな恐怖(原文では、神(エローヒム)の恐れ)が沸き起こった。
モーセは言っている。
「彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。」(申命記32:30-31)
そう、彼らは「岩」であられる主に信頼したから、二人で万人を破る事が出来たのだ。
『主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。』(1ペテロ2:4-6)
岩なる主は、寄り頼む者には、決して揺るがされる事の無い救いである。
しかし、寄り頼まない者には、全く逆の作用を及ぼす。
『この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。』(同7-8節)
主イエス・キリストという救いの岩に信頼を置く私達には、次の特権が与えられている。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(同9-10節)
主を信頼する私達は、選ばれた種族、王のような祭司、聖なる国民、神の民であり、あわれみを受けた者となっているのだ。
神の国、すなわち「神の支配領域」は、神の子が、神の御言葉を信じて、その通り行動する所に、現れる。
そしてそこは、物理法則さえ凌駕する神の力、神の業がなされる。ヨシュアが祈りで地球の自転を停止させたように、エリヤとやもめのパンが尽きなかったように、また、ペテロが少しの間だが水の上を歩いたように。
皆さんの家、職場、行く先々は、神の国となっているだろうか。
私達が、御言葉に信頼して行動するなら、そこは、神の支配が行き届く所となるのだ。
神の国は、神の子とされた者が、神のことばを信頼し、行使する所に現れる。
行く先々において、神の国を興し、闇を光に、死をいのちに塗りつぶして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!