メッセージ - ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35)
ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35)
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- 執筆 :
- pastor 2015-3-19 23:50
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『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵(mine enemies)にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(1サムエル記14:24)
主の敵を滅ぼす、という誓いならともかく、サウルは「わたしの敵」(mine enemies)に復讐する事を強要するため、夕方まで民に断食を強要した。
誓う事は霊的な意思表示であるが(民数記30章)、彼は一見、その霊的な事をしはしても、その動機は結局、自己中心である。
彼は、御心を求めてから途中でそれを止めさせたり、サムエルを待てなかったくせに人々には食べるのを待つよう強要したりしたりと、ちぐはぐで、芯の無い行動をしている。
それは結局、人々に信仰的だと思わせる動機でしているから、人々の賛同如何で、ころころ変わってしまうような、ちぐはぐで芯の無い行動となってしまうのだ。
彼のような、外見は”信仰的”でも、心は人受けする事を第一とするような指導者の下にいる人は、サウルの部下達のように、振り回されっぱなしである。
『ところで、民がみな森の中にはいると、地のおもてに蜜があった。民は森にはいった時、蜜のしたたっているのを見た。しかしだれもそれを手に取って口につけるものがなかった。民が誓いを恐れたからである。しかしヨナタンは、父が民に誓わせたことを聞かなかったので、手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした。』(1サムエル記14:25-27)
ヨナタンは、サウルが立てさせた誓いを知らなかったので、何の良心のとがめも、悪意もなく、蜜を味わった。
『その時、民のひとりが言った、「あなたの父は、かたく民に誓わせて『きょう、食物を食べる者は、のろわれる』と言われました。それで民は疲れているのです」。ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。まして、民がきょう敵からぶんどった物を、じゅうぶん食べていたならば、さらに多くのペリシテびとを殺していたでしょうに」。』(1サムエル記14:28-30)
このような、いらぬ「せよ」「してはならない」の命令を、神の名の元に乱発し、群れ全体の仕事効率を低下させたり、聖徒達を苦しめたりする霊的指導者は、いつの時代でも、いるが、彼らは、主の御心を行う事が第一ではなく、主の御名を借りて、人々に自分の好む事を押し付けたいに過ぎない。
主にある指導者が、主にあって正当に支配しているかどうかの指標は、御霊の実を実らせているかいないかという事、そして、そこに自由があるかないか、である。
『主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。』(2コリント3:17)
ヨナタンの言葉には、自由があるが、サウルの言葉には、自由が見られない。
以下、見比べて見ると、よく分かる。
『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル記14:6-7)
『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(同24節)
もちろん、自由とは、好き勝手に欲望のおもむくまま、ではなく、御霊にある自由であり、そこには愛、喜び、誠実、自制などの、御霊の実が結ばされているものである。
御霊が働かれる所には、自由がある。
しかし、人の押し付けには自由は無く、行動の制限と束縛感があり、そして束縛がきつ過ぎると、人に罪を犯させてしまう。
『その日イスラエルびとは、ペリシテびとを撃って、ミクマシからアヤロンに及んだ。そして民は、ひじょうに疲れたので、ぶんどり物に、はせかかって、羊、牛、子牛を取って、それを地の上に殺し、血のままでそれを食べた。』(1サムエル記14:31-32)
血のあるままで肉を食べる事、これは、律法では禁じられている事であるが、人々にその罪を犯させる「とっかかり」を作ったのは、サウルだった。
『またあなたがたはすべてその住む所で、鳥にせよ、獣にせよ、すべてその血を食べてはならない。だれでもすべて血を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう』」。』(レビ記7:26-27)
もしサウルが、あくまで律法を徹底するとしたら、血のまま食べた人々を、民の内から絶たなければならないはずだが、それはしなかった。
そして、別の「ある事」を徹底させ、さらに「とんちんかん」を増し加えて行く事になる。