メッセージ - 聞き従う事はいけにえにまさり、そむく事は占いの罪、従わない事は偶像礼拝の罪(1サムエル記15:12-23)
聞き従う事はいけにえにまさり、そむく事は占いの罪、従わない事は偶像礼拝の罪(1サムエル記15:12-23)
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- 執筆 :
- pastor 2015-3-25 23:50
礼拝説教メッセージ音声:聞き従う事はいけにえにまさり、そむく事は占いの罪、従わない事は偶像礼拝の罪(1サムエル記15:12-23):右クリックで保存
アマレク人を絶ち滅ぼす事は、将来のイスラエルの存亡に関わる重要事項で、主は、そのミッションをサウルに託されたのだが、彼は命令に従い通さず、アマレクの王アガグと、肥えた羊や牛の良いものを惜しんだ。
それが主の御心を損ね、サムエルを悲しませた。
『そして朝サウルに会うため、早く起きたが、サムエルに告げる人があった、「サウルはカルメルにきて、自分のために戦勝記念碑を建て、身をかえして進み、ギルガルへ下って行きました」。』(1サムエル記15:12)
サウルは今回の戦勝の事で、「自分のために」記念碑を建てた。
そもそも、アマレクを滅ぼす事は主の御心であり、必ず勝利する事は、主が確定しておられたのに、サウルは、主の言葉どおりにはしなかったばかりか、その戦勝を、自分の実績としたのだ。
彼は、手柄は自分のものにし、都合の悪い事は他人のせいにする性質の持ち主だが、今回その性質が、遺憾なく発揮されている。
『サムエルがサウルのもとへ来ると、サウルは彼に言った、「どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました」。』(1サムエル記15:13)
サウルは、サムエルと会う時、きっと何か言われるだろうと、あらかじめ踏んでいたのだろう。一見、信仰的な、きれいな言葉をかける。
人は、心にやましい事があると、それを隠すために、きれいな言葉で飾って、突いて欲しくない点を隠し、逸らそうとするものだ。
彼のサムエルへの第一声は「わたしは主の言葉を実行しました」だが、主の言葉を実行する・しないの点こそ、彼のやましさがある所である。
確かに彼は、ある部分は言葉を実行したが、全部ではなかった。
滅ぼし尽くすべきもの、そこに存在してはならないものを、残してしまう。それは例えば、料理の具材を置く場所に、毒も一緒に置かれているなら、一刻もはやく、取り除いておくべきような事である。
もし、ある人に毒を除き去っておくよう言ったのに、彼は除き去らず、かえって「わたしは頑張って料理しました、その毒の最もおいしいの部分を、お捧げしようと、取っておいたのです」などと言うとしたら、どうだろうか。サウルは、それをしたのである。
アマレクは、イスラエルを将来滅ぼしかねない毒であるのに、彼はアマレクの一部を生かしておいたからだ。
『サムエルは言った、「それならば、わたしの耳にはいる、この羊の声と、わたしの聞く牛の声は、いったい、なんですか」。サウルは言った、「人々がアマレクびとの所から引いてきたのです。民は、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです。そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました」。』(1サムエル記15:14-15)
サウルはここでも「”人々が”アマレクびとの所から引いてきた(KJV: 「"They" have brought them」)」と言って、自分に都合の悪いことは全部、人のせいにしている。
「”民は”、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残した」と。
「主に捧げる」。聞こえの良い言葉であるが、皆さんは、全てを見通している王を前に、毒入りの料理を献上して、平気でいられると思うだろうか。
『サムエルはサウルに言った、「おやめなさい。昨夜、主がわたしに言われたことを、あなたに告げましょう」。サウルは彼に言った、「言ってください」。サムエルは言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。』(1サムエル記15:16-18)
皆さんもサウルのように、自分を小さいと思っていないだろうか。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:9)
私達は、いかに自分がつまらない者のように見えても、キリストという尊いかしら石により頼んでいるのであるなら、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民であり(1ペテロ2:5-9)、歩むべき使命が与えられている。
それはすなわち、「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、語り伝える」事である。
世の王は、ほしいままに好き勝手できるものだが、神の国における王族は、私達を王族にして下さったお方の声に聞き従い、与えられた使命に忠実であるべきである。
そうでないと、サウルのように、王権は剥奪されてしまうのだ。
『サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。』(1サムエル記15:20-21)
サウルは、同じ言い訳を繰り返した。
すなわち、自分は主の声に聞き従った、自分はアマレクを滅ぼした、しかし民は分捕りをして、しかもその理由は、主に捧げるため、という事を。
サウルはあらかじめ、サムエルにこう指摘されたら、こう返そう、と、用意していたのかもしれない。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。』(1サムエル記15:22)
この有名な聖句は、礼拝で既に何度も引用しているが、御言葉に聞き従う事こそ、どんな尊い捧げ物より、主に喜ばれる行為だ。
どんな美しいくちびるの果実も、どんな多額の献金も、どんなに身を粉にして働く奉仕も、御言葉に聞き従う事が無いなら、主は、そんな捧げ物を受け取らない。
『そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル記15:23)
主は、混ぜ物つきの捧げ物や奉仕を、忌み嫌われる。
「これを滅ぼすのは惜しい、主に捧げるという口実なら、許してもらえるかも」などと、自分の都合の良いように、御言葉に身勝手な解釈を混ぜ込む事など、もってのほかである。
主の御言葉よりも、自分の好むことを優先させる事は「占いの罪」であり、強情に御言葉を跳ね除けるのは、偶像崇拝の罪なのだ。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
私達が聞き従うべき「御言葉」とは、「ことば」そのものなる、イエスキリストである。(ガラテヤ2:16)
律法を全て成就して下さった方・イエス様に聞き従い、歩調を合わせて共に歩むなら、全ての「あれやこれをしなければ」という心配や重荷は降ろされ、たましいに安らぎが来るのだ。(マタイ11:28-30)