メッセージ - 十字架の前の宴 - 最後の晩餐で制定された聖餐(ルカ22:14-20)
十字架の前の宴 - 最後の晩餐で制定された聖餐(ルカ22:14-20)
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本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々が衣服や「しゅろの葉」を置いて「ホサナ」と叫びつつ迎えた日で、その日を起点に、金曜までを「受難週」 、そして次週主日は、主のよみがえりを祝う復活祭(イースター)である。本日は十字架の死を前に、主が弟子達にもうけた宴会、「最後の晩餐」にて、主が制定された「聖餐」をよく学びたい。
『イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。』(15節) イエス様が弟子達と持たれた、最後の晩餐は、「過越の食事」である。
過越祭は、主がイスラエルをエジプトから脱出させた事を記念する祭りである。エジプト脱出前夜、主は男子の初子を全て死に絶えさせる災いを降したが、ある事をした家は「死が過ぎ越し」、一人も滅びなかった。
そのある事とは、傷の無い小羊をほふってその血を家の戸口に塗り、その家の中で「過越の食事」にあずかる事である。この小羊こそ、十字架上でほふられ、肉を裂かれ、血を流されたキリストを意味している。
血のしるしの外では、死と滅びがあったのに対し、血の内側には、ごちそうと救いがあったように、十字架上でほふられるキリストを信じる者には、死と滅びは過ぎ越し、永遠のいのちと、ごちそうに与れるのである。
『あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。』(16節) キリストは一度ほふられたが、二度とほふられる事は無い。過越はまだ神の国で成就しておらず、かの日に血潮の内にいるか、外にいるか、全ての人は、その選択をする時機にいるのだ。
『キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。』(ヘブル9:28)
キリストが二度目に来る時は、彼を待ち望んでいる人の救いのために来られるのであって、もう一度十字架にかかるためではない。だから、一度罪赦され血潮で洗われたのに、相変わらず好き好んで罪を犯し、キリストを何度も十字架につけるような者には、もはや贖いの血潮は残されていない。(ヘブル10:26)
『そして杯を取り、感謝して言われた「これを取って、互に分けて飲め。」・・・またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。」』(17-18節) 神はイスラエルに過越を制定されたが、イエス様は私達に、パンと杯の聖餐を制定された。それも、イエス様を記念し、イエス様を覚えて行うように、と。
聖餐にあずかる時、イエス様の裂かれた肉と、流された血潮とを、覚える事こそ、重要だ。
罪を犯してきたかどうかが、聖餐に相応しい・相応しくないではない。御体は罪を罰するために裂かれ、血は罪を清めるために流されたから。だから罪があるなら、いっそうキリストを覚えて、聖餐にあずかるべきだ。
キリストは「取って食べなさい」と言われ、「飲みなさい」と言われた。イエス様が、いのちを差し出してまで、私達が食べられるように、また飲めるようになって下さった以上、断固、感謝していただくべきなのだ。
イエス様は、私達の身代わりになって、死なれた。感謝しても、し尽くせないものがある。私達は、キリストの流された血潮と、裂かれた肉にあずかる時、イエス様に対する感謝、恩、それをいつも覚えているだろうか。
イスラエルの民が、一歳の傷の無い、かわいい盛りの羊を、自分達の身代わりとしてほふる時、血の生々しいしるしが門にあるのを見、その小羊を食べる時、感謝と申し訳無さに、涙があふれた事だろう。
皆さんは、ほふられた小羊キリストが死なれた事の悲しさ、罪の身代わりになってくれた事の申し訳無さ、そして救われた事への感謝と喜びの「感覚」があるだろうか。キリストを覚えて、涙溢れた事はあるだろうか。
その申し訳無さや感謝や喜びの「感覚」を味わう事こそ、キリストを味わう事である。
教会において、御言葉なるキリストを学び、キリストの素晴らしさをわかちあう時、あるいは、キリストの話題で盛り上がりながら共に食卓にあずかる時、その交わりは、キリストの血と肉を分かち合う、一種の聖餐のようなものである。しかしもしキリストを分かち合うべき交わりの場において、キリストをおぼえる事抜きで礼拝したり、飲み食いするなら、その飲み食いがその人をさばく事になる。(1コリント11:17-34)
主キリストにある事をわきまえて、共に集い、共に恵みを豊かに分かち合う皆さんでありますように!