メッセージ - 聖なる憤り(1サムエル記17:17-30)
礼拝説教メッセージ音声:聖なる憤り(1サムエル記17:17-30):右クリックで保存
『ダビデは荷物をおろして、荷物を守る者にあずけ、戦列の方へ走って、兄たちの所へ行き、彼らの安否を尋ねた。兄たちと語っている時、ペリシテびとの戦列から、ガテのペリシテびとで、名をゴリアテという、あの戦いをいどむ者が上ってきて、前と同じ言葉を言ったので、ダビデはそれを聞いた。イスラエルのすべての人は、その人を見て、避けて逃げ、ひじょうに恐れた。』(1サムエル記17:22-24)
ダビデは、かのペリシテ人を見、その言葉を聞いた。
イスラエルの男子たちはゴリヤテを見ると上から下まで恐れ、四十日もなぶられっぱなしであったが、ダビデは違った。
彼がゴリヤテを見、その言葉を聞いた時、沸き起こってきたものは恐れではなく、憤りであった。
聖なる憤りというものがある。
祭司ピネハスは、悔い改めの集会をして罪を嘆くべき時、異邦の女を連れ込んでみだらな事をしていた者を、槍で刺し通し、主の憤りを自分のものとした。(民数記25章)
そしてイエス様も、神の宮で不法がはびこっているのを見た時、聖なる憤りに満たされ、それをしている者達を追い出した。
『イスラエルの人々はまた言った、「あなたがたは、あの上ってきた人を見たか。確かにイスラエルにいどむために上ってきたのだ。彼を殺す人は、王が大いなる富を与えて富ませ、その娘を与え、その父の家にはイスラエルのうちで税を免れさせるであろう」。
ダビデはかたわらに立っている人々に言った、「このペリシテびとを殺し、イスラエルの恥をすすぐ人には、どうされるのですか。この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか」。民は前と同じように、「彼を殺す人にはこうされるであろう」と答えた。』(1サムエル記17:25-27)
サウル達は、ゴリヤテの外見と言葉を恐れ、四十日も右往左往していたが、ダビデは、ゴリヤテの外見は一切言及せず、彼を「割礼なき者」とし、自分たちを「生ける神の陣」として、「真理の立場」を表明した。
私達も、偽りや割礼無き世のものが、大げさな成りをして迫って来て、真理にモノ申して来る時、「真理」である御言葉を、信仰を混ぜ込んで宣言すべきである。
私達神の民が、真理を宣言するか、それとも偽りの言葉に従うか。それによって、現実世界も霊的世界も動くのだ。
神の陣とは、いかなるものか。
それは聖なるもの、聖なるお方が歩まれる場所であり、きよく保たなければならない所である。。
『あなたの神、主があなたを救い、敵をあなたにわたそうと、陣営の中を歩まれるからである。ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたのうちにきたない物のあるのを見て、離れ去られることのないためである。』(申命記23:14)
敬虔なイスラエル人は、子供が幼い時から、律法教育を施しているので、ダビデも「生ける神の陣」はきよく保たなければならないと、教えられていただろう。
それなのに、大人達はそれを信じておらず、主が歩まれる聖なる陣営を、無割礼の者に四十日も好き放題言わせていた事についても、憤りを覚えた事だろう。
『上の兄エリアブはダビデが人々と語るのを聞いて、ダビデに向かい怒りを発して言った、「なんのために下ってきたのか。野にいるわずかの羊はだれに託したのか。あなたのわがままと悪い心はわかっている。戦いを見るために下ってきたのだ」。』(1サムエル記17:28-30)
今度は、長男エリアブが、年の離れた末っ子・ダビデを、責めて来た。
年長者の身内が、信仰をくじくような事を言って来る時、結構、折れやすかったりする。
自分達は、あのゴリヤテを四十日もどうする事も出来なかったのだ、野次馬根性丸出しで出て来たばかりのお前が、割礼無き者だとか、生ける神の陣だとか、信仰を語るな、おまえはひっこんで羊でも飼っていろ、と。
しかしダビデは、それにも動じなかった。
生ける神の陣がなぶられたまま置かれる事は、たとえ長男に戒められたとしても、放っておけなかったのだ。
『ダビデは言った、「わたしが今、何をしたというのですか。ただひと言いっただけではありませんか」。またふり向いて、ほかの人に前のように語ったところ、民はまた同じように答えた。』(1サムエル記17:29-30)
聖なるお方が宿るべき所を、割礼無き世の者が大上段にふるまって、不当に汚しているのを見る時、私達も大いに憤るべきだ。
教会は、主が宿られる所である。キリストの体だからだ。
聖徒の交わりも、主が宿られるものである。二人でも三人でもキリストの名の元に集まるなら、そこに主がおられるからだ。
賛美も、主が宿られるものである。イスラエルの神は、賛美を住まいとされるからだ。
そして、私達・キリスト者の体も、聖なるものである。私達のからだは聖霊の宮であって、もはや自分自身のものではないからだ。
これらが無割礼の者によって踏みにじられる時、私達もダビデのように聖なる憤りをもって、真理を宣言し、主イエス・キリストの名によって対決すべきである。