メッセージ - サウルの剣を不採用し、川の石を採用したダビデ(1サムエル記17:31-40)
サウルの剣を不採用し、川の石を採用したダビデ(1サムエル記17:31-40)
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- 執筆 :
- pastor 2015-4-9 2:38
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ダビデは「この生ける神の陣をなぶる割礼なき者は何者なのか」「この者を殺してイスラエルの恥をすすぐ人には、どうされるのか」などと、色々な人に聞いて回ったので、イスラエルの陣営の中でかなり目立ったのだろう、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを呼び寄せた。(1サムエル記17:31)
『ダビデはサウルに言った「だれも彼のゆえに気を落してはなりません。しもべが行ってあのペリシテびとと戦いましょう」。サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。』(1サムエル記17:32)
サウルは、紅顔の少年が、自分も相手もわきまえず、根拠の無い全能感に駆られた大ごとを言っている、くらいに思ったかもしれない。
しかしダビデには、根拠があったのだ。
『しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。』(1サムエル記17:34-35)
なんと少年ダビデは、ライオンや熊を撃ち殺した、というのだ。
大きな口をたたく少年が、また一つ、大きなほらを吹いた、と、何となく思ったりしていないだろうか。
いや、実際にライオンや熊を殺したのだ。
彼は油注がれた時、主の霊が激しく降り、サムソンのように、主の守りと力が与えられたのだろう。
彼をサウルに推した者も言っている。彼には主が共におられ、勇士で、戦士であり、体格も良かった、と。(16:18)
『しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。』(1サムエル記17:36-37)
彼が羊飼いの仕事、すなわち誰も見向きもせず、数にも数えられない下っ端の仕事をしている時、こんな汚くつまらない下っ端仕事を、と、ばかにしたりせず、しっかり羊を見張り、時には、命の危険を賭してライオンや熊と戦って羊を守り、戦士として、そしてイスラエルという囲いの羊飼いとして、鍛えられていったのだ。
彼は、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主」と言っている。
自分には、獅子や熊を殺す力があるぞ、ではなく、自分をその獣から救い、羊を救い出させて下さったのは、主であると、はっきり認知している。
そして彼は、ゴリヤテを必ず打ち負かせるという、確たる自信を持っていた。
その根拠は、あの者は、生ける神の軍に戦いを挑んだ、すなわち、生ける神にケンカをふっかけたのだから、戦って下さるのは主であり、ゴリヤテにはもう勝ち目は無い、というものだ。
サウルや周りの大人達は、この少年は、「自分と相手の力量差」もわきまえず、ただ全能感に駆られて、大風呂敷を広げている、と思ったかもしれない。
しかし実は、ダビデこそ誰よりもわきまえていたのだ。「自分達の内にいます主と、相手との力量差」を。そしてサウル達のほうこそ、わきまえていなかったのだ。
『そしてサウルは自分のいくさ衣をダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。』(1サムエル記17:38-39)
サウルは常識的に、この戦いは剣や鎧を用いるものだと思って、彼によろいとかぶと、剣を帯びさせた。
しかしダビデは、それが慣れていないものだと分かると、それが王のものであろうと、躊躇なく脱ぎ捨て、自分に馴染んだものを取り出した。
神の国の戦いは、世の手段や常識に従わせようとすると、合わないのだ。そして、是全身動き出来なくなるものである。
このように、世の常識や手段を守らなくては、という思いに縛られて、身動き出来なくなっている神の国の働き人が、いかに多いだろうか。
『ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた。』(1サムエル記17:40)
ダビデは、サウルの鎧や剣は不採用し、採用したのは、川から取ってきた、なめらかな石だった。
主に用いられるものとは、川のなめらかな石のように、水の中に浸しこまれ、流れの中で、でこぼこが取れたものである。(イザヤ40:3-5)
私達も、御言葉の水の中に浸しこまれ(バプテスマされ)、山のように高ぶっている所は低くされ、谷のように卑屈になっている所も埋められ、そうして整えられてこそ、神に用いられる「生ける石」となるのである。