メッセージ - 罪を制さぬ者は悪霊に制せられる(1サムエル記18:1-16)
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『ダビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。この日、サウルはダビデを召しかかえて、父の家に帰らせなかった。ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。また、そのいくさ衣、およびつるぎも弓も帯も、そのようにした。』(1サムエル記18:1-4)
主にある信仰者は、信仰者の、信仰ある行動に惹きつけられて互いに意気投合し、血の繋がった実の兄弟姉妹以上の親しさを覚えるものである。キリスト者とは、そういうものだ。
教会は「キリストのからだ」で、同じキリストのいのちを共有しており、一つが尊ばれれば共に喜び、一つが傷つけば共に痛む。故に、教会では互いを「兄弟」「姉妹」と呼び合うのだ。(1コリント12章)
ダビデの名は「愛されし者」だが、彼はヨナタンから愛されただけでなく、サウルの家来たちからも愛された。
『ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、てがらを立てたので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。』(1サムエル記18:5)
ダビデはとても若いはずなのに、兵の隊長へと大抜擢された。
上司がかなり年下だと、うまく関係が築けなくなりやすいものだが、ダビデの場合、そうではなかった。
なぜなら彼は、戦いにおいて、いつも先頭に立って戦っていたからである。(13,16節)
彼が千人隊の長になっても、千人の部下より、誰よりも先んじて出て行き、いつも圧倒的な実績を収めていた。
だから誰もが認め、誰もが彼に安心してついて行けたのだ。
このように人々から愛され、人気者になると、妬む者も現れる。
彼を妬んだのは、イスラエルの王・サウルだった。
『人々が引き揚げてきた時、すなわちダビデが、かのペリシテびとを殺して帰った時、女たちはイスラエルの町々から出てきて、手鼓と祝い歌と三糸の琴をもって、歌いつ舞いつ、サウル王を迎えた。女たちは踊りながら互に歌いかわした、/「サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した」。サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。サウルは、この日からのちダビデをうかがった。』(1サムエル記18:6-9)
サウルが、ダビデを見る目が変わってしまったきっかけは、女性たちの、ダビデを褒めたたえる歌だった。
サウルは身長が高く、美男子だったので、ペリシテとの戦いで勝利する度に、女性達からの声援も、たくさん受けた事だろう。
しかしこの度、サウルよりもダビデのほうに、より大きな評価が集まっているという事で、彼を憎んだ。
妬み、怒り、独占欲、そうした悪い心を、取り扱わないまま放置しているなら、悪魔サタンにエサを蒔いて「来てください」と言っているようなものである。
『次の日、神から来る悪霊がサウルにはげしく臨んで、サウルが家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」ので、ダビデは、いつものように、手で琴をひいた。その時、サウルの手にやりがあったので、サウルは「ダビデを壁に刺し通そう」と思って、そのやりをふり上げた。しかしダビデは二度身をかわしてサウルを避けた。』(1サムエル記18:10-11)
サウルは、悪い霊が激しく望んで「預言した」。ここで分かるように、預言すれば何でも良いというものではない。
預言できる人が、必ずしも、霊的に正しいとは限らないため、その、預言をさせている霊を確かめるべきだ。
御霊の実には、妬みや嫉妬、怒り、独占欲、殺意なぞ、無い。もし、皆さんの周りに霊的な人、預言の人、奇跡をする人がいて、ガラテヤ5:19-21でリストアップされているような、死に属する行動を取るなら、すみやかに離れたほうが良い。
戸口で待ち伏せている罪を治める事をせず、放置しているなら、さらに悪い事になり、さらに罪を犯す事になってしまう。
『日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。』(創世記4:3-7)
カインもサウルも、自分より下の者が、神様から愛され認められる事で、妬みを起こし、殺人の行動を取った。
主はなぜアベルを認め、またダビデを認めたのか。
それは、彼らが主を愛し、主に優れたものを捧げたからであって、彼らは別に誰かに認められたいとか、昇進したいとかいう下心は、一切なかった。
ダビデはますます手柄を立て、ますます人々から愛され、その事は、サウルをますます恐れた。
妬み、嫉妬、殺意、恐れ。それは皆、ガラテヤ5:19-21に記されている、肉の実である。
私達は、罪が戸口で慕っていると感じた時、それを主イエスの名によって、とりこにし、治めるべきだ。
それをしないなら、殺意が芽生え、それを放置する、あるいは殺意を思い巡らしていくなら、実際に、殺しをするのである。
『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。』(ヤコブ4:1-3)
私達は決して肉の欲望を満足させず、御霊にあって歩み、御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を豊かに結ばせる者でありたい。(ガラテヤ5:22-23)