メッセージ - ダビデを鍛える事に用いられたサウル(1サムエル記18:17-30)
ダビデを鍛える事に用いられたサウル(1サムエル記18:17-30)
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- 執筆 :
- pastor 2015-4-15 23:50
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『その時サウルはダビデに言った、「わたしの長女メラブを、あなたに妻として与えよう。ただ、あなたはわたしのために勇ましく、主の戦いを戦いなさい」。サウルは「自分の手で彼を殺さないで、ペリシテびとの手で殺そう」と思ったからである。』(1サムエル記18:17)
サウルとしては、ダビデに「王の娘と結婚できる」という「褒美」をちらつかせて戦争に出させ、戦っている内に戦死させようと、目論んだのだろう。
サウルから二度も槍を投げつけられ、妬みの目で見られていたダビデには、彼のこの表面上きれいな言葉に、かなりの胡散臭さを感じたであろう。
しかし「王」という最高権威から言われる事については、どうしようもない。
『ダビデはサウルに言った、「わたしは何者なのでしょう。わたしの親族、わたしの父の一族はイスラエルのうちで何者なのでしょう。そのわたしが、どうして王のむこになることができましょう」。』(1サムエル記18:18)
ダビデには、知恵があった。そして、自分という立場をわきまえていた。
彼は「主が油を注がれた王」が、いかに尊いものかを、サウル本人よりもわきまえており、後に彼は自分を付け狙うサウルを、いとも簡単に殺せるチャンスが2度訪れるのだが、2度とも、主に油注がれた王を殺す事は出来ないと、決して手を降さなかった。
『しかしサウルの娘メラブは、ダビデにとつぐべき時になって、メホラびとアデリエルに妻として与えられた。』(1サムエル記18:19)
サウルは、ダビデが中々罠にかかってくれないので、あきらめて、娘を他の男に嫁がせたのかもしれない。
このようにサウルは、ダビデに勧めた事を土壇場でキャンセルしておきながら、すぐにまた別の企みをする。
『サウルの娘ミカルはダビデを愛した。人々がそれをサウルに告げたとき、サウルはその事を喜んだ。サウルは「ミカルを彼に与えて、彼を欺く手だてとし、ペリシテびとの手で彼を殺そう」と思ったので、サウルはふたたびダビデに言った、「あなたを、きょう、わたしのむこにします」。そしてサウルは家来たちに命じた、「ひそかにダビデに言いなさい、『王はあなたが気に入り、王の家来たちも皆あなたを愛しています。それゆえ王のむこになりなさい』」。』(1サムエル記18:20-22)
サウルが娘の気持ちを喜んだのは、娘の幸せを思ってではなく、ダビデを殺す道具に使える、と思ったからだ。
彼は元から上の娘・下の娘の幸せを全く考えておらず、むしろ、妬ましいダビデが死ぬなら、娘が未亡人になってもかまわないのだ。
『そこでサウルの家来たちはこの言葉をダビデの耳に語ったので、ダビデは言った、「わたしのような貧しく、卑しい者が、王のむこになることは、あなたがたには、たやすいことと思われますか」。サウルの家来たちはサウルに、「ダビデはこう言った」と告げた。』(1サムエル記18:23-24)
サウルは、今度は直接ではなく、兵士たちの口を用いて、間接的にダビデに勧めたが、彼はまたも辞退した。そのような身分ではない、と。
どんな条件を要求をされるのか分かったものではないし、また、自分をわきまえていたからだ。
しかし、サウルの側から、結婚のための条件が提示される。
『サウルは言った、「あなたがたはダビデにこう言いなさい、『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる』」。これはサウルが、ダビデをペリシテびとの手によって倒そうと思ったからである。』(1サムエル記18:23-25)
陽の皮は、ユダヤ人が割礼の時に切り取られるべき部分である。
それを百枚、それも期限つきでそれを獲よ、とダビデを急かす事によって、ダビデは屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、とサウルは思ったのかもしれない。
しかし前章を見て分かる通り、ダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は、主にあって当然すぎる事だった。
『サウルの家来たちが、この言葉をダビデに告げた時、ダビデは王のむこになることを良しとした。そして定めた日がまだこないうちに、ダビデは従者をつれて、立って行き、ペリシテびと二百人を殺して、その陽の皮を携え帰り、王のむこになるために、それをことごとく王にささげた。そこでサウルは娘ミカルを彼に妻として与えた。』(1サムエル記18:26
ここまであざやかに条件を達成されてしまっては、何も文句は言えない。
サウルは一度、既に約束を破っている。
そして今回は、サウル自ら兵たちに噂を流させ、公に意図を伝えたのだから、人目を恐るサウルとしては、自分が約束した事を果たさざるをえない。
『しかしサウルは見て、主がダビデと共におられること、またイスラエルのすべての人がダビデを愛するのを知った時、サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した。さてペリシテびとの君たちが攻めてきたが、ダビデは、彼らが攻めてくるごとに、サウルのどの家来よりも多くのてがらを立てたので、その名はひじょうに尊敬された。』(1サムエル記18:28-30)
主は、主を愛する者を守り、その敵の企み通りにはなさらないのだ。
詩篇を読むと、サウルに関連した悩みがたくさん出てくるのが分かるが、その都度、ダビデは主に助けを求め、主から慰めを受け、主にあって奮い立ち、主から力を得ており、ダビデとしては、このサウルから学んだ事が非常に多い。
主は、サウルを用いてダビデを鍛えたのだ。
私達も、どうしてこんな人が目の前にいるのだろう、いなくなって欲しい、と思うような人がいるかもしれない。
しかしそのような時でも主に助けを求め、主を拠り所とするなら、主はやがてその人を高く挙げて下さるのだ。