メッセージ - 捨てられた石が(使徒4:8-22)
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韓国語通訳有 한국어예배
イエスこそ人々から捨てられた隅の親石(詩篇118:22)であり、彼の名によって人は癒され、また彼の名以外には救いは与えられていない。
この名を信じる者には罪の赦しと、体のよみがえりと、永遠のいのちが与えられ、ペテロ達を大胆に造り替えた聖霊も与えられる。
これこそ、私達がなすべきメッセージである。
ペテロとヨハネは、祭司長達の前であろうと、群集の前であろうと、「イエスの名によってでなければ救われない」と同じく宣言し、誰の目にも明らかに生まれつき足が利か
なかった者は、癒された。
この出来事の故に、多くの人達は「神様を賛美し」、イエスを信じる者はこの素晴らしい事が人に起こるのだと希望を持ち、五千人以上が仲間に加わった。
悔い改めて立ち返るならそのような素晴らしいプレゼントが与えられるが、悔い改めるという事をあくまでしない者もいる。
サドカイ派の人達の主張は、復活もよみがえりもなければ、死後の裁きも無い。
彼らは今生きている現世こそ全てだと考えている故、いかに既得権を守り、保つか、という事に苦心している。
そのような主張は、何も彼らだけの専売特許ではなく、いつの時代でも、どこにでもいる。
多くの人達は癒しの御技に希望を持ち、神を賛美したが、彼らがそれを喜ばないのには訳がある。
自分達が「上」であるために、「下」である人間が必要で、
「あなたは神殿に入れない劣った者、私達は入れる優れた者」といった、目に見える比較対照が欲しかったのだ。
生まれつき足が利かずにいる者は、神殿に一生入れないまま癒される事無く、ずっと物乞いをしていて欲しかったのである。
下の奴はいつまでも下に留まって欲しい、と思って、伸びようとする者を叩く人間は、今も会社組織に珍しくない。
彼らは、その下の階級である元漁師のペテロとヨハネに、何も言い返す事ができず、互いに評議し合って言った。
「あのような著しい徴が全住民に知れ渡ってしまった。だから、どうしよう。」
ペテロ達がイエスの名を通して人間業ではない事が行われたのを見た事は見たものの、悔い改めるという事は、頭に全く無かった。
それどころか、多くの者達がこの二人を支持したから、もし彼らを鞭打ち処刑したりすれば、自分達のほうが悪人になる、といった事を心配しているのである。
そういうわけで、彼は何も出来ず、脅した上で釈放しようという結論に至った分けである。
イエスというお方の前に、人は真っ二つに道が分かれる。
それまでの自分の道を捨てる者、固持する者。
自分を固持する者は後に失い、捨てるものは後に得る。
ペテロたちは言った。
「神に聞き従うよりもあなたたちに聞き従うほうが神の前に義しいかとうか、判断して下さい。」
彼らは尋問されているようで、逆に尋問したのである。
イエスの名によって徴が現れているのは誰も否定しようが無い。
それでもなお、イエスを否定しているあなたたちは、神の前に正しいかどうか。判断して下さい、と。
神の国の大使として、その事を立派に提言したわけである。
ペテロとヨハネは元々お調子者で、カッとなりやすい、裏切った、弱く卑怯な者達であった。
しかし彼らのこのような一連の言動と、大胆さと、知恵とは、とても人間業ではない。
御霊に満たされれば、誰でも造り替えられるのである。
御霊に満たされ、イエス様を大胆に証しする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!