メッセージ - ぶどう畑についての愛の歌(イザヤ5:1-17)
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
ぶどう畑についての愛の歌(イザヤ5:1-17)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書5章を基に、神の愛とイスラエルの背信、そしてキリストの贖いについて語るメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書5:1-17、ヨハネ15章、ガラテヤ5:22-23
【戒めの言葉】
主が期待されたのに、イスラエルは酸いぶどうを実らせてしまいました。私たちも同じ過ちを犯さないよう気をつけましょう。
【励ましの言葉】
たとえ私たちが酸っぱい実を結んでしまっても、十字架上のキリストを仰ぎ見るなら救われます。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちの酸っぱくなってしまった人生を主に差し出し、新しい始まりを与えていただきましょう。
【***詳細***】
今日、私たちが恵みをいただく御言葉はイザヤ書5章1節から17節までです。ここで主は、ぶどう畑をモチーフにしてイスラエルの人々にあることを知らせようとされます。
まず1-2節を読みます。
「私は歌おう。その葡萄畑についての我が愛の唄を。我が愛する者は、よく越えた山腹に葡萄畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良い葡萄を植え、その中に矢倉を建て、酒船までも掘って、甘い葡萄のなるのを待ち望んでいた。ところが、酸い葡萄ができてしまった。」
主は愛の心をもって、また喜びをもって、期待をもって、甘いぶどうのなるのを期待して、よく手入れしてぶどうを植えられましたが、しかし酸っぱいぶどうがなってしまって、主は悲しまれました。
愛という言葉は非常に私たちにも麗しく響くものですが、同時に愛の心は甘く麗しいのですが、同時に酸っぱくもなりやすいものです。自然界のぶどうは、しっかりと手入れして正しく用いれば甘いぶどう酒はできるはずですが、ここでできてしまったものは、しっかりと管理されて、いろんな手入れもされたにもかかわらず、自分の意思を持っているかのように酸っぱいぶどうになってしまいました。
7節で主ははっきりと言われます。「大和の葡萄畑はイスラエルの家であり」と。主はよく人々、また私たちをブドウに例えることをよくなさいます。例えば詩編128編や、ヨハネ15章で、「私は真のぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われています。
主は私たちが豊かな実を結ぶことを期待しておられます。ガラテヤ5章22-23節には、「しかし、御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。これらの実を私たちが結ばせるならば、本当に私たちは主に甘い実を祈らせて、主に喜ばれるのです。
しかし、主がよく手入れしたブドウ園、イスラエルが結んだものは、酸っぱい実でした。主はせっかく成してくださった良い業に対して酸っぱさを返したイスラエルに対して、3節以降で裁きを宣言されます。
「私が我がブドウ畑に対してすることを告げよう。その垣を取り除いて、食い荒らされるままにし、その石垣を崩して、踏みつけられるままにする。私はこれを荒れ果てるままにしておく」
親の愛を一心に受けて育つのですが、子供は親の愛がわからず親に対してひどいことをしたりします。子供が親の愛、そして親がどんなに偉大なことをして、どんなに自分のために骨を折っていろいろな苦労をしてくれたか分かるのは、親の元を離れた時です。
社会に出て、人々から虐げられたり、恥をかいたりすると、初めて「ああ、私の父母が私をこんなに愛してくれたのか」と気づくのです。神の愛も同じです。私たちが困難に直面したとき、初めて神の愛の大きさに気づくのです。
8節以降には、人々が主の愛に対していかに悪いことを返したかが記されています。例えば、貧しい人々から搾取し、自分たちだけが富を独占するような行為です。こういった行為に対して、主は11節で「ああ、朝早くから強い酒を追い求め、夜更かしをして、葡萄酒を煽っている者たち」と警告されます。
このような人々に対する裁きが13-14節に書かれています。「それゆえ、我が民は無知のゆえに捕らえ移される。その貴族は飢え、群衆は渇きに悩む。それゆえ、よみは欲望を大きくし、限りなく口を開く。彼らの栄華も、そのにぎわいも、そのどよめきも、その中で喜び騒ぐ者も、みなそこに落ち込む」
しかし、こうした裁きを通して、人々は正しい道に立ち返るのです。高ぶる者は低くされ、低くされた者が高くされるのです。
そして、このメッセージの最も重要な点は、イエス・キリストの十字架です。イエスは十字架上で、酸っぱくなってしまった人間性、人が身勝手にして罪に罪を重ねて酸っぱい実りを実らせた、その人のあらゆる苦さ、酸っぱさ、営みを全部十字架の上で飲み尽くしてくださいました。
イエスが十字架上で「渇く」と言われたとき、人々は酸っぱいぶどう酒を差し出しました。イエスはそれを受け入れ、「完了した」と言われました。これは、人間のあらゆる酸っぱさ、あらゆる罪の営み、それを全部イエスが身代わりになって完済してくださったことを意味します。
【結論】
私たちの酸っぱくなってしまった人生を、十字架上のキリストに差し出しましょう。キリストは私たちの罪を赦し、新しい始まりを与えてくださいます。これからは、真のぶどうの木であるキリストにつながり、御霊の実を豊かに結ぶ者となりましょう。そうすることで、神と人を喜ばせる永遠の祝福の歩みが始まるのです。