メッセージ - 捕らえに来る人達が預言状態になる事で守られたダビデ(1サムエル記19:18-24)
捕らえに来る人達が預言状態になる事で守られたダビデ(1サムエル記19:18-24)
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- 執筆 :
- pastor 2015-4-28 21:51
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ミカルの助けによって何とか命拾いしたダビデは、サムエルの所へ逃れた。
彼はサウルにされた事を全てサムエルに告げ、そして彼の所にしばし住んだ。(1サムエル記19:18)
サムエルは、サウルが主の御言葉にそむいてアマレクを聖絶しなかった時以来、サウルに会わなかったが、あれ以来どんどん邪悪な性質に崩れていくサウルをどう見ていただろうか。
『ある人がサウルに「ダビデはラマのナヨテにいます」と告げたので、サウルは、ダビデを捕えるために、使者たちをつかわした。彼らは預言者の一群が預言していて、サムエルが、そのうちの、かしらとなって立っているのを見たが、その時、神の霊はサウルの使者たちにも臨んで、彼らもまた預言した。』(1サムエル記19:19-20)
サムエルは、ラマで、預言者たちを養成し、訓練していたのだろう。
面白い事に、ダビデを捕らえるためにサウルから遣わされた者達が、そこに行くと、彼らも預言し、そしてダビデを捕らえる事ができなかったようだ。
なぜだろう。
神の霊は、神の御前に何が正しく、何が正しくないのかを示す、知恵と啓示の霊である。
そもそも、ダビデは何も悪い事をしていないし、彼は主の御旨を果たす勇士として、主から大いに用いられている。
それに引き換えサウルは、主から油を注がれたにも関わらず、御旨に背き、主の言葉を軽んじる事を止めないばかりか、何も悪い事をしていないダビデを殺そうと、使者を遣わす。
サウルに従って、ダビデを追い回す事が、いかに愚かで、主の御胸を損ねているか。
それを示され、ダビデを追う事が、もはやできなくなったのではないだろうか。
『サウルは、このことを聞いて、他の使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。サウルは三たび使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。そこでサウルはみずからラマに行き、セクの大井戸に着いた時、問うて言った、「サムエルとダビデは、どこにおるか」。ひとりの人が答えた、「彼らはラマのナヨテにいます」。』(1サムエル記19:21-22)
遣わした使者が、2度ならず3度も預言するようになって、ダビデを追う事をやめている。
もう、明らかに、ダビデを追う事は御旨にかなっていない、と、主が示されているのに、サウルは今度は、自らダビデを捕らえに行く事にした。
主の御霊は、何をすべきか、そして、何をすべきでないかを、私達に告げる。
パウロの場合、第一次宣教旅行はアジアで成功したため、再びアジアに行こうとしたが、行く所行く所、御言葉を語る事を聖霊に禁じられ、リストラからトロアスまでのおよそ千キロ以上、霊的収穫も特に無いままさまよったが、トロアスに来て、ようやく御旨はマケドニアにある事が分かった。(使徒16:6-15)
宣教という良い事においても、また、殺人という悪い事においても、主の御霊は、その時その時人に示し、導きを与える。
サウルの場合、明らかにダビデを追うべきでないと示されたのに、彼は御旨に従う事より、自分のしたい事、すなわち、ダビデを殺したいという思いを、優先させてしまった。
主は、御霊によって導きや警告を与えられるが、それに従うかどうかは、最終的には人の自由意志に委ねられている。
御旨に従い続けるなら、「いのち」の良き実を刈り取るが、背き続けるなら、「死」という苦々しい実を刈り取ってしまう。
パウロは、御霊の導きに忠実に従ってマケドニア、すなわち、ヨーロッパ方面へ渡り、その方面の福音宣教の豊かな実りを得た。
その反対に、バラムは、主が阻止した道をさらに進み行って、その身は剣によって刺し貫かれてしまい、サウルもまた、御旨に背き続け、ついには自ら剣でその身を刺し貫くこととなってしまう。
『そこでサウルはそこからラマのナヨテに行ったが、神の霊はまた彼にも臨んで、彼はラマのナヨテに着くまで歩きながら預言した。そして彼もまた着物を脱いで、同じようにサムエルの前で預言し、一日一夜、裸で倒れ伏していた。人々が「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というのはこのためである。』(1サムエル記19:23-22)
このようにダビデは、捕らえに来る人達が全て預言状態になる、という、実にユニークな方法で、主から守られた。
主は、主に寄り頼む聖徒を、悪しき者から守られる。
私達も、世にあっては患難がある。
主は、私達を世から取り除くように、とは祈られず、悪しき者から守られるように、と祈られた。
ダビデの患難の日々がしばし続いたように、私達もそのような日々が続くかもしれない。
しかし主は、その期間、私達を練り清め、将来主に大いに用いられるために素晴らしい訓練をしておられるのである。