メッセージ - さんざん破壊しておきながら何事も無かったかのように振舞う人の性質(1サムエル記20:24-42)
さんざん破壊しておきながら何事も無かったかのように振舞う人の性質(1サムエル記20:24-42)
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- 執筆 :
- pastor 2015-5-2 8:01
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『さて、ついたちになったので、王は食事をするため席に着いた。王はいつものように壁寄りに席に着き、ヨナタンはその向かい側の席に着き、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの場所にはだれもいなかった。ところがその日サウルは何も言わなかった、「彼に何か起って汚れたのだろう。きっと汚れたのにちがいない」と思ったからである。』(1サムエル記20:24-26)
サウルは、それまで自分がダビデにして来た事、すなわち、ダビデを殺そうとして槍を投げたり、殺意をもって何度も追い回したりした事など、一切無かったかのように、ダビデが自分と食事を共にしないのは、「何か起って汚れたのだろう」と思ったのだ。
自分がしてきた事を一切考慮せず、どうしてそんな脳天気な理由を思い浮かべられるのだろうか。
自分が周りに、どんなにひどく怒りをぶちまけ、破壊し、周囲の人々の心や体を傷つけ、迷惑をかけ、ひどい事をして来たかを、一切、無かったかのようにして、普通に振舞うような人は、確かにいる。
自分が周囲にしてきた行ないが、見事、その人の意識の中から、全く抜け落ちているかのような。
周囲の調和をさんざん破壊しておきながら、それを全部してしまうと、何事も無かったかのように、日常的に周囲の人に振る舞うような人が。
そのような人は、その人が意識的にしている、というより、その人の内に住み着いた悪霊がそれをさせており、その人が悪霊に支配されている間、本人はあまり意識していないものである。
なぜ人は悪霊に意識を乗っ取られてしまうのか。
それはその人が、悪霊の好むエサを常時振り撒いており、寄って来た悪霊の邪悪な思い同意し、自分自身の意識や体の支配権を、悪霊に与えてしまうからだ。
悪霊の好むエサとは、ガラテヤ5章19節以降に記されている「肉の働きリスト」、すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
宗教やまじない、占いにはまっている人が、そのような、非常人的な振る舞いをよくするのは、そのためだ。
サウルのように、偶像礼拝や殺意、ねたみ、怒りなどを放置しておくと、悪霊に支配されるようになって、無意識的に極端な”発作的行動”をしてしまうのだ。
もちろん、発作的に異常な言動をするすべての人が悪霊に憑かれていると言っているのではない。
しかし、少なくともサウルのように、主と主の言葉にそむく問題をそのまま放置し続けて、そうなってしまったのであるなら、それは明らかに霊的な問題である。
『しかし、ふつか目すなわち、ついたちの明くる日も、ダビデの場所はあいていたので、サウルは、その子ヨナタンに言った、「どうしてエッサイの子は、きのうもきょうも食事にこないのか」。
ヨナタンはサウルに答えた、「ダビデは、ベツレヘムへ行くことを許してくださいと、しきりにわたしに求めました。彼は言いました、『わたしに行かせてください。われわれの一族が町で祭をするので、兄がわたしに来るようにと命じました。それでもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうぞ、わたしに行くことを許し、兄弟たちに会わせてください』。それで彼は王の食卓にこなかったのです」。』(1サムエル記20:27-30)
ヨナタンの言った事、普通に「そういう事もあるだろう」と流せる内容だが、このわずかな言葉によって、サウルは豹変してしまう。
悪霊を宿している者は、通常、普通の人と変わらないように見えても、誰かのちょっとした言葉や行動がきっかけとなって、内に秘めている霊を暴走させてしまうのだ。
『その時サウルはヨナタンにむかって怒りを発し、彼に言った、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。あなたがエッサイの子を選んで、自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめていることをわたしが知らないと思うのか。エッサイの子がこの世に生きながらえている間は、あなたも、あなたの王国も堅く立っていくことはできない。それゆえ今、人をつかわして、彼をわたしのもとに連れてこさせなさい。彼は必ず死ななければならない」。』(1サムエル記20:30-31)
サウルは突然、すごい剣幕で、ヨナタンのみならず、ヨナタンの母でありサウルの妻をも冒涜するような汚し事を叫んだ。
ヨナタンはただ、ダビデには都合あって、この食事の席に参加できない、と言っただけだった。
それが突然すごい勢いと剣幕で、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。」「自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめている(原意:母の裸を露わにしている)」など返される。
一体どこをどう連想すれば、母の裸の露わに、という話へ発展するのか理解はできないないが、とにかく、頭の中で悪い思いをぐるぐる巡らしている人は、常人には到底連想できないような考えへと導かれ、それをぶちまけるのだ。
『ヨナタンは父サウルに答えた、「どうして彼は殺されなければならないのですか。彼は何をしたのですか」。ところがサウルはヨナタンを撃とうとして、やりを彼に向かって振り上げたので、ヨナタンは父がダビデを殺そうと、心に決めているのを知った。』(1サムエル記20:32-33)
今度はなんと、自分の跡継ぎである息子にも槍を投げつけた。
つい今しがた、王位継承を危うんでいる言葉を発したばかりなのに、その継承者である息子を殺す衝動にかられてしてしまう。
私達は、悪霊に秩序を求めてはならない。
ただ破壊し、殺し、壊す事が、彼らの衝動なのだ。
『ヨナタンは激しく怒って席を立ち、その月のふつかには食事をしなかった。父がダビデをはずかしめたので、ダビデのために憂えたからである。』(1サムエル記20:34)
ヨナタン自身と、彼の母がはずかしめられたというのに、彼は、ダビデがはずかしめられた事を憂いている。
主にある兄弟姉妹とは、そういうもので、自分の事より、愛する兄弟姉妹のほうを心配し、案じるのだ。
パウロも、自分の身よりも同胞の救いをこそ切望した。
『あくる朝、ヨナタンは、ひとりの小さい子供を連れて、ダビデと打ち合わせたように野原に出て行った。そしてその子供に言った、「走って行って、わたしの射る矢を捜しなさい」。子供が走って行く間に、ヨナタンは矢を彼の前の方に放った。』(1サムエル記20:35-36)
前回見たように、矢を前方に射るのは、サウルがダビデのいのちを狙っていて危険だ、というサインだ。
『そして子供が、ヨナタンの放った矢のところへ行った時、ヨナタンは子供のうしろから呼ばわって、「矢は向こうにあるではないか」と言った。ヨナタンはまた、その子供のうしろから呼ばわって言った、「早くせよ、急げ。とどまるな」。その子供は矢を拾い集めて主人ヨナタンのもとにきた。しかし子供は何も知らず、ヨナタンとダビデだけがそのことを知っていた。』(20:37-39)
ヨナタンは「早くせよ、急げ。とどまるな」と叫ぶ事で、事態の深刻さをダビデに伝えた。
ヨナタンの付き人には分からなかったが、これは、信仰の有志にのみ分かるサインであった。
迫害下にあった初代教会も、表向きは誰にも分からない、しかし、信仰の有志にのみ分かるサインで、互いの信仰を確認し合った。
『ヨナタンは自分の武器をその子供に渡して言った、「あなたはこれを町へ運んで行きなさい」。子供が行ってしまうとダビデは石塚のかたわらをはなれて立ちいで、地にひれ伏して三度敬礼した。そして、ふたりは互に口づけし、互に泣いた。やがてダビデは心が落ち着いた。』(1サムエル記20:40)
こうして、ダビデとヨナタンは、別れる事になる。
ダビデは国から追われる身、これからどうなるか分からない。
だから互いに、今生の別れを覚悟しただろう。
『その時ヨナタンはダビデに言った、「無事に行きなさい。われわれふたりは、『主が常にわたしとあなたの間におられ、また、わたしの子孫とあなたの子孫の間におられる』と言って、主の名をさして誓ったのです」。こうしてダビデは立ち去り、ヨナタンは町にはいった。』(1サムエル記20:41-42)
ヨナタンはこのように、信仰の友・ダビデ真実を尽くした。
私達も真実を尽くし、サウルの道に誰も陥らぬよう、互いに教え、戒めあって、信仰の交わりを健全に行って行きたい。