メッセージ - 養うべき人を養う内に、実は養われていたダビデ(1サムエル記22:1-5)
養うべき人を養う内に、実は養われていたダビデ(1サムエル記22:1-5)
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- 執筆 :
- pastor 2015-5-9 11:00
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ダビデは、自分のいのちを守るために、逃げ隠れしたり、本心でない行動を取ったりして、本当にみじめな思いが続いただろう。
そして彼自身、真実から外れた言動を続ける事に、良心の咎めを感じ、このままでは良くないと思っていた事だろう。
そんな彼に、主は、助けを送られる。
『こうしてダビデはその所を去り、アドラムのほら穴へのがれた。彼の兄弟たちと父の家の者は皆、これを聞き、その所に下って彼のもとにきた。』(1サムエル記22:1)
一人逃避行中のダビデの元に、彼の家族や血縁者が集まって来た。
なぜ集まって来たのかは、大体想像できる。
ダビデは、何も悪い事はしていないとは言え、一国の王・サウルから執拗につけ狙われており、しかも、サウルは最近、見境の無い暴君のようになってしまったから、ダビデの家族も、何をされるか分からなくなってきた。
それで彼らもダビデと一緒に逃げるようになったのだろう。
どんな理由であれ、ひとり心萎えていたダビデは、家族が来たことで、慰めを得ただろう。
そしてダビデの元に来たのは、血縁の人達だけでなかった。
『また、しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。おおよそ四百人の人々が彼と共にあった。』(1サムエル記22:2)
ダビデは別に、軍団の長になりたくて人を募ったわけでなく、人々のほうから来たのだが、その400人の内訳は、「しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々(原意:苦い魂を持つ人)」だった。
ダビデはキリストのご性質を、実によくあらわしている。
キリストを慕い求めて来た人達も、当時の世において虐げられている人々、負債がある人々、苦い魂を持った人達だった。
それにしても、400人という大所帯である。
彼らが一日行動するにしても、かなりの食料や物資を調達しなくてはならないし、しかも彼らは、王に追い回されている身だ。
ダビデはそれまで、自分自身の悩みで手一杯だった所に、彼に助けを求めて来た人々が集まってきた。
”わたし”が助けられたい身なのに、なぜか、”わたし”に助けを求めて人が集まって来る。
実はそれが、主が”わたし”を助ける方法だったのだ。
人は、守らなくてはならない人、養わなくてはならない人を持つようになると、強く、健全になるものだ。
ダビデはそれまで、自分のいのちを救うために、本意ではないにしても、真実でない行動をして来た。
しかし400人の長となった今、彼らの前で偽りの行動はする訳にはいかなくなり、真理に立つようになっていった。
それは、彼の後の言動から知れる。
『ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。』(1サムエル記22:3)
モアブは、ダビデのひいおばあさん・ルツの故郷である。
ダビデは、彼のひいおじいさん・ボアズが、ルツと結婚する前に言った言葉、「あなたがその翼の下に身を寄せて来た主が、豊かに報いて下さいますように」という言葉を思い起こしただろう。
しかし、モアブもペリシテのように、異教の神を拝する異邦の国であったが、ダビデはもはや、媚びる事も逃げ隠れもせず、堂々と「神が」自分をどのように導かれるか分かるまで、いさせて下さい、と頼んだ。
ダビデは、まことの神に導かれる者として、堂々と振る舞うようになった。ペリシテの時と比べて、ダビデはなんと変わっただろう。
『そして彼はモアブの王に彼らを託したので、彼らはダビデが要害におる間、王の所におった。』(1サムエル記22:4)
モアブの王は、申し出を受け入れた。
主は、正当に信仰告白をする人を守り、あらゆる便宜を図ってくださるのだ。
こうしてダビデは、しばしモアブに留まる事になった。
ひいおばあさん・ルツのゆかりの地で、いのちの安全が確保され、400人の長として、ある程度の平和の生活を送る事が出来るようになった。
もはやサウルの事は忘れて、モアブで新しい人生を再出発できるかも、という気分だったかもしれないが、それは主の御心ではない。
『預言者ガドはダビデに言った、「要害にとどまっていないで、去ってユダの地へ行きなさい」。そこでダビデは去って、ハレテの森へ行った。』(1サムエル記22:5)
預言者を通して神に示されたダビデは、すぐに預言者の言葉に従順し、危険ではあるけれども神の御心の地・イスラエルの地に帰った。
ダビデは主から、特別な任職の油を注がれた。だから彼は、一生を安穏として生きるべきではないのだ。
私達キリスト者にも、主から聖霊の油を注がれたからには、単に安穏とした一生を生きるものではなく、神の国の働き人として働かなくてはならない。それは安穏の逆、ダビデのように冒険の日々である。
ダビデは、任された400人のいのちを養う内に、清められ、整えられ、そしてイスラエルの王としての特別な養いを、この苦難の期間に受けた。
女王蜂を育てるためには、ローヤルゼリーという特別な蜜で育てられるように、ダビデを王として育てるために、この苦難の期間が、主からのローヤルゼリーだったのだ。
主は私達キリスト者にも、王族の祭司となるために、特別な御言葉のローヤルゼリーで養って下さる。
主はそれぞれに、どんなご計画を持っておられるか、人には分からない。
しかし、主が私達にご計画しておられるか、分かるまでは、私達は主に任されている事を忠実に行ない、また、任されているいのち達を忠実に養うべきなのだ。