メッセージ - みんなの常識的な意見が主の導きと相対する時(1サムエル記23:1-5)
みんなの常識的な意見が主の導きと相対する時(1サムエル記23:1-5)
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- 執筆 :
- pastor 2015-5-14 23:50
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逃亡中のダビデ達の所に、一つの知らせが届いた。
『「ペリシテびとがケイラを攻めて、打ち場の穀物をかすめています」。そこでダビデは主に問うて言った、「わたしが行って、このペリシテびとを撃ちましょうか」。主はダビデに言われた、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」。』(1サムエル記23:1)
ダビデ一行は、サウル王の軍隊から追われている状況だ。
ケイラを助けるのは、もっとゆとりのある人に任せる事ができるだろうし、何より、それはサウル王の仕事であろう。
にも関わらず、「わたしが行くべきでしょうか」と主に尋ねるのが、ダビデのダビデたる所以である。
彼はゴリヤテの時も、生ける神の陣がなぶられる事を許しておけなかったし、羊の一頭でも、ライオンに持っていかれるのを許しておけなかった。
彼は、キリストのように、一人の魂でも、滅んで行く事を許していられない性格だったのだ。
主の御心は、「行け」だった。
ダビデは早速、部下達に伝達しただろう。これから我々はケイラを救いに行く、だから準備せよ、と。
『しかしダビデの従者たちは彼に言った、「われわれは、ユダのここにおってさえ、恐れているのに、ましてケイラへ行って、ペリシテびとの軍に当ることができましょうか」。』(1サムエル記23:3)
常識的に考えるなら、彼らの言う事のほうが、もっともである。
今、自分たちはそんな場合ではない、むしろ、自分たちの身を案じるべきだ、と。
私達も信仰生活を送る上で、このようなジレンマに陥る事がある。
主の御心は「行け」なのに、常識や世の人は「行くな」と言い、そのはざまに揺れる事が。
せっかく、なけなしの信仰を奮い立たせて実行しようとしたのに、周りが早速「NO」をつきつけてくる事が。
人目を気にするサウルなら、迷わず、主の御旨を退け、人の意見を採用していただろう。
しかし、ダビデは違った。
彼は、もう一度、主に伺った。
『ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。』(1サムエル記23:4)
主の意見は、同じであった。
しかも今度は、より明確に、勝利の約束まで与えて下さった。
主は、一度導きを与えたなら、もう二度とは言わないようなお方ではなく、不安だったらもう一度問うて良いのだ。
ギデオンも、最初はそうだった。
しかし、何度も尋ね、何度もgoサインをいただき、しるしまで頂いておきながら、結局、行かないような者は、主はそのうち御顔を背けてしまう。
出エジプトの民やバラム、そしてサウルがそうだった。
『ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。』(1サムエル記23:5)
戦果は、大勝利だった。
彼らの集いは既に六百人に増えていたので、一日を過ごすだけで、かなりの食料が必要であろう。しかし、この戦いをしたお陰で、必要を満たす事が出来た。
ダビデは、「主に伺う」事をいつもしており、苦境にある聖徒たちや兄弟姉妹のためには、自分の考慮をせず、ただ助け出さずにおれない性質である。
彼のように、自分の心配をする以前に、主に伺い、主の御旨どおり行動する人は、いつも大勝利し、またいつも必要が満たされるのだ。
自分には今、あの兄弟姉妹、あの教会を助ける余裕など無い、というような時でも、主は「行け」「助けよ」と言われる事がある。
そのような時こそ、行くべきである。
主は、救う力も必要な資力も与えて下さり、行って、勝利し、救ったなら、全以前よりも富む者とされ、関わった全ての人達が主の栄光を見るのだ。