メッセージ - 無防備なサウルに手をかけなかったダビデ(1サムエル記24:1-7)
無防備なサウルに手をかけなかったダビデ(1サムエル記24:1-7)
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- 執筆 :
- pastor 2015-5-20 23:50
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前回、サウルはあと一歩の所までダビデに追い迫ったが、ペリシテのために追う事を中断せざるを得なくなり、そうしてダビデは一命をとりとめた。
しかしペリシテ人の件が一段落つくと、サウルはまたもダビデを追いはじめた。
『サウルがペリシテびとを追うことをやめて帰ってきたとき、人々は彼に告げて言った、「ダビデはエンゲデの野にいます」。そこでサウルは、全イスラエルから選んだ三千の人を率い、ダビデとその従者たちとを捜すため、「やぎの岩」の前へ出かけた。』(1サムエル記24:1)
サウルの元にいる兵は、精鋭3000、対するダビデと一緒にいる兵は、雑多なはみ出し者たち600人。
明らかにダビデ達が不利であり、ダビデの危機である。
それでダビデ達は、サウル達を避け、洞穴の一つに隠れ入っていた。
エンゲディという場所は、死海湖岸の洞窟が多い地帯で、死海文書が発見されたクムラン洞窟もある。
ダビデは、洞窟で隠れていた時の心境を、詩篇57編と詩篇142編とに記している。
『聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの
神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは/あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。わたしはいと高き神に呼ばわります。わたしのためにすべての事をなしとげられる神に/呼ばわります。』(詩篇57:1-2)
洞窟の中で隠れていたダビデは、決して積極的な心境ではなく、恐れおののいていおり、主の御翼の影に宿りたい一心を、主に吐露していた。
主はそんなダビデに、唐突に、立場逆転のチャンスを与えられた。
『途中、羊のおりの所にきたが、そこに、ほら穴があり、サウルは足をおおうために、その中にはいった。その時、ダビデとその従者たちは、ほら穴の奥にいた。』(1サムエル記24:3)
口語訳では「足をおおう」と直訳しているが、それが「用を足す」「安楽する」「落ち着く」などの意味がある。
いずれにしても彼は、洞窟内で一人、非常に無防備な状態となり、ダビデ達がいとも簡単に命を取れる状況となったのだ。
主がサウルを自分の手に渡して下さった・・・ダビデも思ったであろうし、部下たちもそう思い、すすめた。
『ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。』(1サムエル記24:4-5)
無防備なサウルを前に、ダビデの心には、嵐があった。
主は確かに、彼を自分の手に渡してくれた。しかし、サウルに手をかけようとすると、どうしてもできなかった。
ダビデは、無防備状態のサウルのすそを、ひそかに切ったのだが、その事で、ダビデは心の責めを感じた。
部下たちは、一体何をやっているのだ、と、じれったく思っただろう。
『ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。ダビデはこれらの言葉をもって従者たちを差し止め、サウルを撃つことを許さなかった。サウルは立って、ほら穴を去り、道を進んだ。』(1サムエル記24:6-7)
ダビデは決して、部下たちを前に、善人ぶってそうしたのではない。
さっさとサウルを殺して、部下たち共々、逃げ隠れの生活から脱却しようと思えば簡単にできる状況なのに、サウルをみすみす逃がすなど、デメリット以外に思い浮かばない。
それは、主を知らず、生まれつきの行動原理で歩んでいる人には、決して理解できない行動だ。
ダビデは心底、サウルを殺すなど、出来なかったのだ。「主が油を注がれた」「わが君」に、手をかけるなど。
ダビデはサウルを愛していた、というよりも、「サウルに油を注がれた主」を愛していた。だからサウルは、ダビデにとって、主が任命された「上司」であり、主に油注がれた聖なる者である。
いかに、狂ったような素行をしているサウルと言えど、そんなサウルに刃を向けるというのは、主に対して刃を向けるような心境だったのだろう。
だから彼は、すそを切っただけでも、心の責めを感じたのだ。
ダビデは今後、主に油注がれたサウルを、わざとのがした事によって、サウルから命を奪われてしまうのだろうか。
いや、ダビデは主のゆえにこの事をした以上、主が、ダビデの命が奪われる事を許さない。
主を主を重んじる者は、主から重んじられるのだ。
私達も、主が立てて下さった権威に従い、どんなに小さな事でも、主に対してするように、心からするべきである。
そうするなら、主はちょうど良い時に引き上げて下さるからだ。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17-21)