メッセージ - サウルには忍耐できてもナバルには忍耐できなかったダビデ(1サムエル記25:1-13)
サウルには忍耐できてもナバルには忍耐できなかったダビデ(1サムエル記25:1-13)
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- 執筆 :
- pastor 2015-5-22 23:50
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殺意をもって追って来たサウルに、憐れみによって見事勝利したダビデだったが、今回、ダビデは俗的な一般人のように戻ってしまう一面を見る。
『マオンに、ひとりの人があって、カルメルにその所有があり、ひじょうに裕福で、羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。彼はカルメルで羊の毛を切っていた。その人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。アビガイルは賢くて美しかったが、その夫は剛情で、粗暴であった。彼はカレブびとであった。』(1サムエル記25:2-3)
ナバルの名の意味は「愚か」、また「カレブ」は「犬」の意味があり、七十人訳聖書は「彼は犬のような男であった」と訳されている。
ナバルはカルメルの事業家で裕福となり、優秀な人材にも恵まれているのに、頑迷で、行状の悪さを改めず、身内の人々からも「よこしまな者(17,25節)」と呼ばれていた。
その素行の悪さにもかかわらず、彼が今まで守られて来たのは、ひとえに、彼の周りの優秀な人達が、彼の素行の悪さカバーしていたためだろう。
このナバルに、ダビデはかつて、良くしてやった事があった。
『ダビデは荒野にいて、ナバルがその羊の毛を切っていることを聞いたので、十人の若者をつかわし、その若者たちに言った、「カルメルに上って行ってナバルの所へ行き、わたしの名をもって彼にあいさつし、彼にこう言いなさい、『どうぞあなたに平安があるように。あなたの家に平安があるように。またあなたのすべての持ち物に平安があるように。』(1サムエル記25:4-6)
ダビデは「平安(シャローム)」という祝福の挨拶を三度も送っている。
ダビデは、彼がどのような人物であるか知っていたであろう。
そのような者に対しては、威圧的にならず、へりくだって平和の挨拶をする方が良いと、今までの経験で身に付けたのかもしれない。
イエス様は弟子達に言われた。
『その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。』(マタイ10:12-13)
結論を言うと、ダビデがナバルに発した「シャローム」は、ナバルにはとどまらず、ダビデに帰って来る事になる。
『わたしはあなたが羊の毛を切っておられることを聞きました。あなたの羊飼たちはわれわれと一緒にいたのですが、われわれは彼らを少しも害しませんでした。また彼らはカルメルにいる間に、何ひとつ失ったことはありません。あなたの若者たちに聞いてみられるならば、わかります。それゆえ、わたしの若者たちに、あなたの好意を示してください。われわれは祝の日にきたのです。どうぞ、あなたの手もとにあるものを、贈り物として、しもべどもとあなたの子ダビデにください』」。』(1サムエル記25:7-8)
この事から、ダビデ達がサウルから逃げていた時、彼らは山賊のように、無作為に人のものを奪って食を得ていたのではなく、正当な事をして、正当な報酬を得ていた事が分かる。
ダビデたちがナバルの羊飼い達に、そのように良い事をした事は、後にナバル達の羊飼い達も証言しているし、その事はナバルの耳にも届いていたはずだ。
そんな実績のある彼らが、羊の毛の刈り取り祝いの贈り物として食料を求めるのは、正当な事であるし、ダビデも至極丁重に申し出ている。
しかしナバルは、ダビデ達の「丁重」に対し、「粗野」で返して来た。
『ダビデの若者たちは行って、ダビデの名をもって、これらの言葉をナバルに語り、そして待っていた。ナバルはダビデの若者たちに答えて言った、「ダビデとはだれか。エッサイの子とはだれか。』(1サムエル記25:9-10)
ペリシテの王でさえ「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」という歌を知っている。ましてイスラエルの民である彼が、ダビデの活躍を知らないはずが無い。
彼はダビデの名声を聞いていながらにして、取るに足らない者として、見下したのだろう。
『このごろは、主人を捨てて逃げるしもべが多い。』(1サムエル記25:10)
確かに、ナバルのこんな性格なら、彼の周りから逃げだす奴隷は多いだろうが、一体なぜ、彼は唐突にそんな事を言い出したのか。
もしかすると彼は、ダビデを、サウルという主人から逃げだした、卑劣な逃亡奴隷と見做したのかもしれない。
なにが「ダビデは万を打った」だ、結局は主君を裏切ってみじめに逃げて食料を求めている逃亡奴隷ではないか、というように。
近視眼で、自分が上に立って威張り散らしたい者は、他人の名声を聞いても、些細な所をつまんで貶め、大した事ない奴、と、自他に言い聞かせるものなのだ。
『どうしてわたしのパンと水、またわたしの羊の毛を切る人々のためにほふった肉をとって、どこからきたのかわからない人々に与えることができようか」。』(1サムエル記25:11)
結局のところ、彼は、自分の持ち物を、少したりとも誰かにやりたくなかったのだろう。
『ダビデの若者たちは、そこを去り、帰ってきて、彼にこのすべての事を告げた。そこでダビデは従者たちに言った、「おのおの、つるぎを帯びなさい」。彼らはおのおのつるぎを帯び、ダビデもまたつるぎを帯びた。そしておおよそ四百人がダビデに従って上っていき、二百人は荷物のところにとどまった。』(1サムエル記25:12)
ダビデは普通人のように怒り、罵倒した無礼者に対して、剣で報いようと、部下たちに戦いの用意をさせた。
前回、あんな見事に、柔和な性質をサウルに対してあらわしたダビデだったが、この、つまらない粗野な者の一言で、ただの普通の人に戻ってしまっている。
善を仇で返されたばかりでなく、罵倒までされたのである。怒るのはもっともだが、ナバルだけでなく、罪も無い一族郎党までも、怒りに任せて皆殺しに行くとするなら、まるで、サウルと一緒ではないか。
ダビデは、主が油を注がれた上の権威に対しての従順は、この上なく素晴らしかった。
しかし、下位の、粗野な、面識のない者の、あさってな大風呂敷と、無礼な罵倒に対しては、忍耐と憐れみを示す事は全く頭によぎらず、あたかも下等な犬畜生を殺しに行くかのように、剣を皆に持たせ、出て行った。
粗野な無礼者に、剣で報いる。
それは、この時代は普通に行われていたかもしれないが、ダビデの場合、彼はこれから神の国・イスラエルの王となっていく者である。
神の国の王としての器のものが、それでは、神の国が困るのだ。
私達も、神の国の、王のような祭司である(1ペテロ2:9)。それでいては、困るのだ。
主は、そのダビデの「弱さ」を扱ったのではなかろうか。
そんなダビデを、その性質から救うため、そして王として整えるために、主は一人の助け手、アビガイルという女性を彼に送り、罪を犯させないよう守られる。
私達の中にも、この時のダビデのような性質が、あるのではなかろうか。
貴人に対しては、忍耐もするし、柔和にもなるけれど、見知らぬ粗暴な者から、いきなり無礼極まるあしらいをされたら、人とも思わず犬畜生のように虐殺してやりたい、というような性質が。
あるいは私達に、ナバルのような性質もあるのではなかろうか。
まことのダビデであるイエス様が、人生のあの時この時に盾となり、城壁となって守って下さり、事業を成功させて裕福にもさせて下さったのに、そんなイエス様をないがしろにし、恩を仇で帰したりするような。
私達は、それをこそ主に扱って頂くべきである。
そして、そんな弱い私達にも、アビガイルのような、罪を犯させないよう執り成してくれる助け手を送ってくれるよう、祈るべきである。