メッセージ - 人となられたことば、そこに込められた愛といのち(ヨハネ1:9-14)
人となられたことば、そこに込められた愛といのち(ヨハネ1:9-14)
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御言葉をたくわえる人は頭脳明晰になり健康になる事を前回見たが、御言葉は単に覚えるよりも、その「ことば」の中に込められた神様の愛を知り、じっくりと味わう時、喜びといのちが沸き上がって来る。
言葉は、その内容が理解できない人から見れば、単なる文字の羅列、「あいうえお」の組み合わせに過ぎないが、言葉の中に込められている愛を知り、感じ、その愛が自分に対して開かれている事をさとる時、喜びといのちが、沸き上がってくる。
神のことば、すなわち御言葉は、知恵であり法則であるが、何より「愛」がふんだんに込められている。
だから、同じ御言葉でも、ある人が読む時、ますます顔が輝き、幸福を感じ、健やかになるのに、別の人が読むと、全く分からず、退屈で、さっさと別のことがしたくなる、という事が起きるのだ。
だから御言葉を読む時、愛であられる神の御子キリストを信じる信仰がその人になければ、無意味である。
キリストは「ことば」なるお方であり、そのことばには、究極の愛が練りこまれ、充満している。
そして全宇宙そのものと、その中に満ちているものは、全て、神のことばによって創られた。
だから人は、自然の中にいる時、安息を得るのだ。人はなぜわざわざ、ハイキングや山登りなどをするのか。
建物から外に出て、新鮮な空気を吸い、鳥の声や木々が風になびく音を聞く時、海のさざなみや雨の音を聞く時、あの夕日や月を見る時、なぜ心が落ち着くのか。それは、自然界は愛であられる神のことばによって創られたものであり、その中に、「私達のために」と、練りこまれた神の愛を、何となく感じるからだ。
創世記を見ると、神は混沌の暗闇の中から、まず光を創り、大空を造り、海と陸を分け、陸地に植物を生じさせ、そこに動物や鳥を、また、食物となる草木を生えさせた。
人は、宇宙の最果てや、深い海の底、地底の真っ暗な所に不安を覚え、むしろ光の中、安定した大地の上に安心感を覚える。それは、神はそこに「人が住むように」と、愛を持って定められたからだ。
人は、神が置かれた所、ここに住むように、と言われた所にいるべきで、そこを離れては安息は無いのだ。
親は、愛する子のために住む所、衣服、食物を用意してくれるように、神は愛をもって私達のために光を創られ、海と陸を分け、陸のかわいた所に家畜や獣、そして人を住まわせ、食物となる植物を生えさせた。
だから、神様が「あなたのために」と言って創られた光や木々、動物と接する時、人は安息を得るのだ。
人は罪あるものとなり、人は、人に失望し疲れるものである。その時、無意識・本能的に一人になって、自然のものと向きあおうとするが、それは人は被造物の内に現れている神の栄光と向き合いたいという衝動を本能的に持っているからだ。『神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。』(ローマ1:20)
世はキリストによって創造されたのに、世の人はこのお方を受け入れなかった。(ヨハネ1:11-13)
自分が神でいたい人は、神の存在を否定するが、このお方を信じた人、すなわち、御言葉を信仰をもって受け入れ、御言葉を自分自身と混ぜあわせた人には、全く新しい、神の子としてのいのちが与えられる。
『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(ヨハネ1:14)
どうして神と人とがひとつになる事が出来るのだろう。それは、ことばによってである。
人は、言葉という種を入れる袋のようなもので、どの言葉によって満たすかで人格が決まり、そしてどのような種を自分の人生や環境に対して蒔くかによって、どんな実を刈り取るかが決まる。
皆さんは自分自身の中に、どんな言葉を蓄えようとしているだろう。そして、自分の人生に対してどんな言葉を蒔いているだろうか。
神の子なら神の子らしく、信仰の篭った御言葉である「いのち」を振り蒔き、いのちを刈り取るべきだ。
神は「光よあれ」と宣言して、その通りに光が出来、「区別されよ」と宣言して、混沌から秩序が生じたように、私達も主イエスにあって神の子であるので、信仰を持って主イエスの名によって「なれ」と命じる事ができる。
大いに御言葉を蓄え、至る所、あらゆる機会を用いて、御言葉の種を蒔き、その唇の実であるいのちを、たっぷり刈り取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!