メッセージ - ダビデがサウル家に捧げた哀歌(2サムエル記1:13-27)
礼拝説教メッセージ音声:ダビデがサウル家に捧げた哀歌(2サムエル記1:13-27):右クリックで保存
『ダビデは自分と話していた若者に言った、「あなたはどこの人ですか」。彼は言った、「アマレクびとで、寄留の他国人の子です」。ダビデはまた彼に言った、「どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか」。ダビデはひとりの若者を呼び、「近寄って彼を撃て」と言った。そこで彼を撃ったので死んだ。』(2サムエル記1:13-15)
このアマレクの若者としては、自分は良い知らせをもたらした、と思い込んでいた。(2サムエル記4:10)
きっと、サウル達に追われていたダビデ達に褒美をもらえるだろう、と、浅はかな心をもって「自分がサウル殺した」と言ったのであろうが、彼が刈り取ったのは、死であった。
『ダビデは彼に言った、「あなたの流した血の責めはあなたに帰する。あなたが自分の口から、『わたしは主の油を注がれた者を殺した』と言って、自身にむかって証拠を立てたからである」。』(2サムエル記1:16)
アマレクの若者は、彼の口から出たことばによって、すなわち、『わたしは主の油を注がれた者を殺した』という証言のゆえに、死をもたらされたが、実はこの事は、現代を生きる全ての人々にも、同じく適用される事である。
それはどういう事か。
「主に油注がれた方」は、ヘブル語ではメシヤ、ギリシア語ではキリストである。
現代、多くの人々はキリストを軽んじ、いい気になってキリストをばかにし、敢えて冒涜する言葉や歌を豪語している者が多いが、そのような者達は全て、自分が発した「ことば」について申開きしなくてはならず、それによって裁かれるのである。(ローマ14:12、1ペテロ4:5)
今は恵みの時、憐れみの時である。
悔い改めの機会が与えられている今の内に、救い主キリストに立ち返るべきであり、その「恵みの時」を使い果たしてしまった時、このアマレクの若者のように、死という刈り取りをしなければならなくなる。
『ダビデはこの悲しみの歌をもって、サウルとその子ヨナタンのために哀悼した。これは、ユダの人々に教えるための弓の歌で、ヤシャルの書にしるされている。』(2サムエル記1:17)
ダビデは、サウルやヨナタン達が悪者として歴史に葬られないよう、彼らの良い所、称えられるべき所を追悼の歌にのせ、それを人々に歌わせた。
ダビデのそのような高貴な性質こそ、神の国において尊い事に用いられる器である人の性質である。
『「イスラエルよ、あなたの栄光は、/あなたの高き所で殺された。ああ、勇士たちは、ついに倒れた。ガテにこの事を告げてはいけない。アシケロンのちまたに伝えてはならない。おそらくはペリシテびとの娘たちが喜び、/割礼なき者の娘たちが勝ちほこるであろう。』(2サムエル記1:19)
歌の出だしは、サウル達をイスラエルの「栄光(ツェビー:美しさ、栄光)」とし、彼らを勇士として称える所から始まる。
『ギルボアの山よ、/露はおまえの上におりるな。死の野よ、/雨もおまえの上に降るな。その所に勇士たちの盾は捨てられ、/サウルの盾は油を塗らずに捨てられた。』(2サムエル記1:21)
ギルボア山は、サウル達が倒された所だが、ダビデがこのように”呪って”以来、ギルボア山の片面はぎこちなく禿げ上がってしまい、近年のイスラエル政府による緑化政策でも植物が育たなかった、と言われる。
『殺した者の血を飲まずには、/ヨナタンの弓は退かず、/勇士の脂肪を食べないでは、/サウルのつるぎは、むなしくは帰らなかった。サウルとヨナタンとは、愛され、かつ喜ばれた。彼らは生きるにも、死ぬにも離れず、/わしよりも早く、/ししよりも強かった。イスラエルの娘たちよ、サウルのために泣け。彼は緋色の着物をもって、/はなやかにあなたがたを装い、/あなたがたの着物に金の飾りをつけた。』(2サムエル記1:22-24)
イスラエルの娘たちは、サウルは千を打ちダビデは万を打った、と歌って、サウルが小さく、ダビデを大きくしているが、ダビデ自身は、サウルがイスラエルの娘たちに良くしてくれた事を、思い起こさせている。
『ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンは、あなたの高き所で殺された。わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、/女の愛にもまさっていた。』(2サムエル記1:25-26)
同性愛者達はよく、この「女の愛にもまさっていた。」を引用して、ダビデも同性愛だったのだ、と言っているが、あいにくダビデは「わが兄弟(韓国語では「兄上」と訳している)ヨナタンよ」と呼びかけており、「主にある信仰の兄弟の優れた「兄弟愛」を称えているのであって、その兄弟愛の強さは、世の恋愛感情に遥かに勝るものであったから、ダビデは「あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく」とうたったのだ。
主を信じる信仰者同士の「兄弟愛」は、家族の愛より、男女の愛よりも強く優れている事を、信仰者の友を持つ聖徒であるなら、誰もが経験している所だろう。
そもそも、聖書は同性愛を至る個所で禁じており(ローマ1:26-28, レビ18:22-30, 1テモテ1:9-10, 1コリント6:9-10, ユダ1:7)、この個所をもって神は同性愛を養護している、と主張するのは、早計もいい所である。
『ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた」。』(2サムエル記1:27)
ダビデはこのように、自分達のいのちを付け狙った相手を悪く言わず、「勇士たち」として追悼した。
世の王は、気に食わない人を抹殺し、死人に口なしとばかりに好き勝手な悪名をその人に着せ、歴史をでっち上げようとする事が多いが、ダビデは、その逆だった。
人のした悪を思わず、良い所を、人々に見出させようとする性質を持ち合わせていた。
それはキリストの性質であり、私達もそのようなたしなみを身につけるべきだ。