メッセージ - マイム・ ベッサッソン(イザヤ12章)
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
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【概要】
イザヤ書12章を中心に、神の怒りと慰め、救いの喜びについてのメッセージ
【聖書箇所】
イザヤ書12:1-6
ヨハネの福音書4章
【慰めの言葉】
主は悔い改めた民に対して慰めを送ってくださいます。
【励ましの言葉】
見よ、神は私の救い、私は信頼して恐れることはありません。
【勧めの言葉】
あなた方は喜びながら、救いの泉から水を汲みなさい。
【悔い改めの促しの言葉】
主が何で私たちに悔いなさいと言っているかと言ったら、お前は罪人だからと言って、私たちを責めるためではなくて、罪によってその責めを負っていることを止めるためです。
【***詳細***】
今日のメッセージは、イザヤ書12章を中心に、神の怒りと慰め、そして救いの喜びについてお話しします。
イザヤ書12章1-2節には次のように書かれています。
「その日、あなたは言おう。主よ、感謝します。あなたは私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めて下さいました。見よ、神は私の救い、私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は私の力、私の褒め歌、私のために救いとなられた。」
この箇所は、イスラエルの民に対する神の慰めの言葉です。それまでイザヤ書では、罪を犯したイスラエルに対する厳しい言葉が続いていましたが、ここで一転して慰めの言葉が語られています。
なぜ主は慰めてくださるのでしょうか。それは悔い改めがあったからです。イスラエルは多くの苦しみを受けましたが、自分が悪かったということに気づいて悔い改めたから、主は慰めを送ってくださるのです。
主は誰も彼も許すわけではありません。確かに地獄に行ってしまう人もいます。その分岐点となるのが、悔い改めて主に立ち返ることなのです。自分の罪を言い表すとき、主は慰めを与えてくださいます。
イザヤ書12:3には次のように書かれています。
「あなた方は、喜びながら、救いの泉から水を汲む。」
この「水を汲む」というヘブライ語は「マイムベッシャソン」と言います。皆さんが小中学校で習ったマイムマイムという踊りは、実はこの聖書の言葉から来ているのです。
救いの泉から水を汲むという行為は、イエス・キリストという命の水を汲み上げることを意味しています。ヨハネの福音書4章にあるサマリアの女の話を思い出してください。彼女は昼間の暑い時間に水を汲みに来ていました。それは罪と恥のためでした。
そんな彼女のところにイエス様が来られ、こう言われました。
「この水を飲む者は誰でもまた渇きます。しかし私が与える水を飲む者は誰でも決して渇くことがありません。私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命への水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)
イエス様から与えられる水は、永遠の命への水となります。サマリアの女はイエス様に求め、その水を汲んだのです。
私たちも同じように、イエス様に助けを求めることが、救いの泉から水を汲むことなのです。イエス様のところに行って、イエス様に求めることです。
サマリアの女は、イエス様との出会いによって大きく変えられました。彼女は喜びに満たされ、町の人々にイエス様のことを伝えました。イザヤ書12:4-6には次のように書かれています。
「その日、あなた方は言う。主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。その御業を国々の民の中に知らせよ。御名が崇められていることを語り告げよ。主を褒め歌え。主は素晴らしいことをされた。これを全世界に知らせよ。シオンに住む者よ、大声をあげて喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなた方の中におられる大いなる方だ。」
救われた喜びは、伝えずにはいられないのです。サマリアの女も救いの泉から水を汲み、その喜びが溢れて、周りの人々に伝えました。
私たちも同じです。私たち自身の力では誰かを救うことはできません。しかし、イエス様を流し出す通り管となるなら、人々を救いへと導くことができるのです。
神様は確かに、私たちが罪を犯したとき、懲らしめを与えられます。しかし、それは私たちが憎いからではなく、本当に立ち返ってほしいからです。そして、私たちが悔い改めをしたとき、主は豊かに許してくださり、怒りが去って慰めてくださるのです。
そのとき、私たちは渇くことなく潤され、イエス様を述べ伝える器として用いられるのです。どうか皆さんも、イエス様という救いの水に救いを求め、決して渇くことのない潤いを得て歩んでいく者となりますように。
【結論】
神様は私たちの悔い改めを待っておられます。悔い改めるとき、神の怒りは去り、慰めと救いが与えられます。その喜びは、周りの人々にも伝わっていくのです。イエス・キリストという救いの泉から水を汲み、その喜びと潤いをもって歩む者となりましょう。