メッセージ - ダビデ家の部下達とサウル家の部下達の抗争(2サムエル記2:12-32)
ダビデ家の部下達とサウル家の部下達の抗争(2サムエル記2:12-32)
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- 執筆 :
- pastor 2015-7-13 23:09
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ダビデはサウル家に誠実を尽くしたヤベシュ・ギルアデの住人に祝意を送り、サウル家に対しては争いを仕掛ける意図は一切無く、平和に過ごしたかったのだが、彼の部下たちやサウルに属する人達は、そうではなかった。
『ネルの子アブネル、およびサウルの子イシボセテの家来たちはマハナイムを出てギベオンへ行った。』(2サムエル記2:12)
ギブオンは元々、ベニヤミンの領地である。
サウルの将軍だったアブネル達がそこに向かったのは、ダビデの家と一戦を交えるためというより、単に、自分達の領地に戻るためだったのかもしれない。
しかし、アブネル達がギブオンに向かったという情報を聞いたダビデの家来達、ゼルヤの子達と呼ばれているヨアブ、アビシャイ、アサヘルの3兄弟は、戦士達を引き連れ、そのギブオンへと向かった。
『ゼルヤの子ヨアブとダビデの家来たちも出ていって、ギベオンの池のそばで彼らと出会い、一方は池のこちら側に、一方は池のあちら側にすわった。アブネルはヨアブに言った、「さあ、若者たちを立たせて、われわれの前で勝負をさせよう」。ヨアブは言った、「彼らを立たせよう」。』(2サムエル記2:13-14)
アブネルから「勝負させよう」という提案が出されたが、この「勝負」と訳されたヘブライ語・「サハク」は、元々、「遊ぶ」「笑う」「楽しむ」などの意味である。
最初は、余興的に勝負をさせよう、というつもりだったのかもしれない。
『こうしてサウルの子イシボセテとベニヤミンびととのために十二人、およびダビデの家来たち十二人を数えて出した。彼らは立って進み、おのおの相手の頭を捕え、つるぎを相手のわき腹に刺し、こうして彼らは共に倒れた。それゆえ、その所はヘルカテ・ハヅリムと呼ばれた。それはギベオンにある。その日、戦いはひじょうに激しく、アブネルとイスラエルの人々はダビデの家来たちの前に敗れた。』(2サムエル記2:15-17)
この試合では、12人が12人とも相打ちとなって勝負がつかず、両陣営は激昂し、ひどい殺し合いへと発展してしまった。
1969年のホンジュラスとエルサルバドルの戦争のきっかけは、ワールドカップの予選試合だったように、戦争とは大体、事前に敵対的な心情が互いにあって、それが増加し、ささいな事が発端となって起こるものである。
『争いの初めは水がもれるのに似ている、それゆえ、けんかの起らないうちにそれをやめよ。 』(箴言17:14)
と記されているとおりである。
『その所にゼルヤの三人の子、ヨアブ、アビシャイ、およびアサヘルがいたが、アサヘルは足の早いこと、野のかもしかのようであった。アサヘルはアブネルのあとを追っていったが、行くのに右にも左にも曲ることなく、アブネルのあとに走った。』(2サムエル記2:18-19)
このゼルヤの子達は皆、有能な将校であったが、気性が激しかった。
アサヘルは、自慢の足をもって執拗にアブネルを追いかけ、手柄を取ろうとしたのだが、それが彼にとって命取りとなってしまう。
アブネルからの2度の警告を受けたのに聞かず、アブネルに追い迫ったため、アブネルは仕方なく彼を殺した。
ヨアブとアビシャイは、末の弟アサヘルが殺されたという事で激昂し、さらにアブネルのあとを追った。
『その時アブネルはヨアブに呼ばわって言った、「いつまでもつるぎをもって滅ぼそうとするのか。あなたはその結果の悲惨なのを知らないのか。いつまで民にその兄弟を追うことをやめよと命じないのか」。ヨアブは言った、「神は生きておられる。もしあなたが言いださなかったならば、民はおのおのその兄弟を追わずに、朝のうちに去っていたであろう」。こうしてヨアブは角笛を吹いたので、民はみな立ちとどまって、もはやイスラエルのあとを追わず、また重ねて戦わなかった。』(2サムエル記2:26-28)
戦いを止めるよう持ちかけて来たのも、アブネルの側からだった。
ヨアブは、アブネルのほうが闘技を提案しなかったら、自分達はこんな殺し合いをしなかっただろう、朝の内に去っていただろ、と言ったが、軍団を連れてベニヤミン領に入って来たのも、また闘技の提案に乗ったのも、そして、アブネルを執拗に追い回したのも、ゼルヤの子達の側ではなかったか。
そしてヨアブ達は、アブネル達に、過剰防衛とも言える程の事をしている。
『ヨアブはアブネルを追うことをやめて帰り、民をみな集めたが、ダビデの家来たち十九人とアサヘルとが見当らなかった。しかし、ダビデの家来たちは、アブネルの従者であるベニヤミンの人々三百六十人を撃ち殺した。』(2サムエル記2:30)
力の差は、歴然である。
闘技以外で殺された人数は、アブネルの側は348人、ヨアブの側は、アサヘルを含めて、わずか8人だった。
アブネルの方が多くを殺され、ヨアブ達のほうが少なかったのに、怒りはヨアブのほうが大きかった。ヨアブはこの後、アブネルを卑怯な方法で殺す事になる。
ヨアブは結局、その血気盛んな激しい気性ゆえに、剣によって身を滅ぼす事になってしまう。(1列王記2章)
『イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。』(マタイ26:52)
人の怒りは、神の義を現さない。
私達はつとめて、この「怒り」や「妬み」「殺意」を支配するべきである。それらはカインの道であり、サウルはそれで身を滅ぼした。
そして、力だめし的に挑発する事も、自分の能力を誇示し合う事も、そして、ゆずらない事も、無駄で不毛な血の流し合いとなってしまう。
『怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。』(箴言14:29-30)