メッセージ - 留め置けない命のことば(使徒5:17-28)
礼拝説教メッセージ音声:留め置けない命のことば(使徒5:17-28):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
使徒達は、再び大祭司たちに捕まってしまった。
その動機は嫉妬であり、自分達が民の指導者でいたいのに、使徒達のほうが大いなる奇跡を行って、目立っているからである。
福音を邪魔する者の特徴として、もっとも特徴的なのは、嫉妬である。
彼らは民衆の目を気にし、相集い、自分達の権威を振りかざす事で存在をアピールする。
イエスの名によって多くの徴が行われているにもかかわらず、イエスがキリストであるという考えに結びつかないのは「我々」が第一優先だからであり、力強いあかしと奇跡に裏打ちされたイエス様の名を否定してでも、あくまで自分達が支配者の座に座っていたいのである。
ペテロは「あなたがたがキリストを十字架につけた」と、外国から来た者達にも言ったし、イスラエルに元々住んでいる者にも、道端の物乞いにも、そして祭司長達にもまったく同じく言ってきた。
全ての人がイエス様を十字架につけたのだ。
悔い改めて永遠のいのちに入れられる者とは、心刺され、イエスキリストを信じた者達である。
故に、ことさら「我々のせいにしようとしている」と読み取っているサドカイ人達は、まことに自分の事しか見ていない。
福音を伝える者達は確かに迫害を受けるが、しかし福音を留めおくことは出来ない。
どんなに牢獄の鍵をがっちりかけても、番人たちが牢の外で見張っていようとも、主はその中から救い出す事が出来る。
何のために救い出すのか。それは20節「いのちのことばを全ての民に向かって語りなさい」これが理由である。
主は、確かに聖徒達を苦しいところから助け出されるが、聖徒達が「聖徒」たる行いをする動機があれば、大いに救い出してくださる。
「いのちのことば」とは何か?
それは、ペテロが2回のメッセージにて一貫して伝えている「十字架につけられたイエスキリスト」の事である。
彼を十字架につけたのは人類全てであり、悔い改めて信じる者には、罪の赦し、永遠のいのち、約束の聖霊が与えられ、大いなる徴や不思議を成す。
祭司長達はあくまでイエスの名を語ってはならないと命じたが、いのちのことばは病や汚れた霊に苦しめられている人達を解放し、邪悪な行いをしていた者達は聖なる行いをするようになり、生まれつき歩けなかった者も、神殿に入れなかったものも、喜び踊りながら神殿に入って、神を礼拝する者となるのだ。
どうしてこの尊い「いのちのことば」を黙す事が出来るだろうか。
弱い者達が次々と壮健に変えられていくのも、祭司長達が耐えられない理由のひとつであった。
世の中の価値観では、弱者は弱者のままであって欲しい。
世の価値観は人々を束縛し奴隷状態にするが、主の価値観は、人々をいのちで満たし、奴隷から解放する。
しかし、いのちのことばは、留め置く事ができないのである。
春になれば、芽を出す。そのめは例えアスファルトに覆われていようと、突き破って行くように、いのちのことばを伝えるなら、どんな邪魔も迫害も、留め置く事はできない。
しかし、聖徒達が恐れるなら話は別である。
サタンは色々な方法を使って邪魔を試みる。
特定の人達を使って直接の妨害をする事もあるし、何かしようとしたらそれをするに当たって欠かせない物が壊れたり、あるいは、聖徒達をささいな事で仲たがいさせたりする。
サタンのその策略を見言葉の光に照らし出し、見破り、イエスの血をふりかけるなら、妨害は無効化され、より大いに主の御技を成す事ができる。
サタンの策略に立ち向かい、いのちのことばを大胆に広める皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!