メッセージ - 王とされたダビデ(2サムエル記5:1-5)
王とされたダビデ(2サムエル記5:1-5)
Youtube動画
音声
『イスラエルのすべての部族はヘブロンにいるダビデのもとにきて言った、「われわれは、あなたの骨肉です。先にサウルがわれわれの王であった時にも、あなたはイスラエルを率いて出入りされました。そして主はあなたに、『あなたはわたしの民イスラエルを牧するであろう。またあなたはイスラエルの君となるであろう』と言われました」。
このようにイスラエルの長老たちが皆、ヘブロンにいる王のもとにきたので、ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。』(2サムエル記5:3)
いよいよダビデは、全イスラエルの王となった。
聖書中の最重要人物の一人、イエス・キリストが生まれる家系の父となりイスラエル王族の大元となった「ダビデ王」。
彼が王となった成り立ちは、自分のはかりごとや力に一切依らず、ただ、主の約束を信じる「待ちの姿勢」を貫いた結果、半自動的に王とされた。
神の国で高められる人の性質は、自分の力や知恵によらず、ただ主に依り頼む人である。
『ダビデは王となったとき三十歳で、四十年の間、世を治めた。すなわちヘブロンで七年六か月ユダを治め、またエルサレムで三十三年、全イスラエルとユダを治めた。』(2サムエル記5:4-5)
ダビデの統治した期間は40年。
イスラエル全体の歴史からすればとても僅かであり、その間、ダビデ自身の罪や不完全さによって、人々の生活が不安定となった時もあった。
しかし、来るべきダビデの子・イエス・キリストの統治は、永遠であり、完全である。
『わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。』(エゼキエル34:23-24)
王の中の王として有名なダビデ。
彼はなぜ、神と人とに愛され、そこまで偉大な王となれたのか。
それは、ダビデは事あるごとに主に主に求め、罪を指摘された時は、間髪を入れず悔い改め、すぐ主に立ち返る性質だったからだ。
ダビデとサウルの違いは、日頃主に依り頼むか、頼まないか。
罪が指摘された時、悔い改めるか、悔い改めないか。
その違いはシンプルだが、それは実に、永遠の明暗を分ける違いである。
私達も、救い主・イエスキリストにあって「王族の祭司」とされた。(1ペテロ2:9)
「王」であるからには、私達にも統べ治めるべき領域がある。
自分自身の人生、すなわち、自分の時間や身体を正しく治めるものであるし、子供や家庭を、また事業や仕事などを正当に治めるべき「王」である。
今、私達に任されているその王としての統治領域は僅かかもしれない。
しかし私達は、その小さな領域を、忠実に支配していくべきだ。
ダビデはいつ、全能の主から「王」として見出されただろうか。
それは彼がまだ紅顔の少年だった時に、すなわち、エッサイ一家の末っ子として皆に軽んじられ、サムエルの食事会にも招かれず、羊の番をさせられていた時から、であった。
その時から彼は、羊飼いとして与えられた小さな仕事を軽んじる事なく、任された羊達を、ライオンや熊からも命がけで守った。
彼は普通の毎日の中で、主に聞き従い、主の主権の中で忠実である事を、しっかり培ったからこそ、人間の誰にも見向きもされない時期から、主に目を留められ、油注がれたのだ。
そうして彼は、イスラエルの徴兵にもされない弱冠の歳にして、イスラエルの大人たちが誰も出来なかった事、すなわち、ゴリアテを倒したのだ。
それは、彼の能力や知恵によらず、はかりごとによらず、ただ、主に信頼して進み出た事によって、だった。
私達もダビデのように、日々、遣わされている仕事場や家庭などの先々で、主と主のことばに忠実に仕える事をしっかり養い、守るべき「羊」達を守るべきだ。
日々の小さな事に忠実であるなら、ダビデのように主に見出され、さらに多くを任せられる。
日ごと忠実に歩み、ダビデのように多くを任され、多くの主の仕事が出来る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!