メッセージ - 水を差された「主・不在」の熱狂イベント(2サムエル記6:1-9)
水を差された「主・不在」の熱狂イベント(2サムエル記6:1-9)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-7-27 6:19
水を差された「主・不在」の熱狂イベント(2サムエル記6:1-9)
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音声
『ダビデは再びイスラエルのえり抜きの者三万人をことごとく集めた。そしてダビデは立って、自分と共にいるすべての民と共にバアレ・ユダへ行って、神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。』(2サムエル記6:1)
今回ダビデが兵を集めたのは、戦うためではなく、神の箱を、自分の街エルサレムに運び入れるためだった。
神の箱は、長い間、放置状態だった。
この時からさかのぼる事数十年前、サムエルがまだ若かった時、イスラエルは主を軽んじた故に、神の箱がペリシテに奪われてしまう、という事件があった。(2サムエル記4章)
しかし箱は、どの人間の手も借りず、ペリシテの地で多くの災いをもたらし、御者のいない牛車によって、ひとりでに戻されたが、その戻された所のイスラエルの人々は箱の中を見てしまったため、不敬の故に、大勢の人々が倒れた。(同5-6章)
それ以来、神の箱はずっとアビナダブの家に安置され、そのまま何十年かが経過していた。
『彼らは神の箱を新しい車に載せて、山の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子たち、ウザとアヒオとが神の箱を載せた新しい車を指揮し、ウザは神の箱のかたわらに沿い、アヒオは箱の前に進んだ。ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。』(2サムエル記6:3-5)ダビデは、今までにないアイデアを駆使し、盛大に神の箱を運んだ。
新しい牛車を用意し、そこに神の箱を載せ、アビナダブの子達にその車を指揮させ、三万もの選り抜きの兵士と共に、色々な楽器を用い、新しい賛美とダンスをもって主をほめたたえながら運んだ。
かなり大掛かりで華やかなイベントが進行していたが、その盛り上がりの頂点の時、全部を覆してしまうような事が起きた。
『彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。牛がつまずいたからである。すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。』(2サムエル記6:6-8)
牛がつまづいて、神の箱が倒れそうになったのを支える、という、「いい事」をしたはずのウザが、主に撃たれ死んでしまう・・・なぜこのような事が起きるのだろう。
聖書を探ってみると、実は、ダビデ達の側に正さねばならない事があった事に気づく。
今回、ダビデが主の箱を運び入れようという行動に至った経緯が、第一歴代誌に詳しく記されている。
『ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。』(1歴代誌13:1-3)
ダビデはここで「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば」と言っている。
つまり、「あなたがた」千人隊長や百人隊長が「先」で、「われわれの神、主」が「後」になっている。
人が先で、主の御名が後。これがまず一つである。
『会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。』(1歴代誌13:4-5)
この一大イベント企画は、軍人たちの賛同が得られ、多くの人達が動員された様子は記されているものの、ダビデが主に伺ったとか、祭司やレビ人に相談を求めた、といった記述は見いだせない。
ようするに、ダビデ達は一見、主を敬っているかのように見えるが、実は人間が主体で「主・不在の人間的盛り上がりイベント」に過ぎなかった、という事だ。
いかに多くの人達の賛同が得られても、また、何万人を動員するイベントが企画され実行されてしまっていても、主の御心を外して突き進んでしまうのは、危険である。
なぜなら、御言葉は「法則」であり、「これをすれば死ぬ」と言われている事をするならば、死んでしまうからだ。
今回彼らは、神の箱を移動しているのだが、その場合、どうしなくてはならないのだろうか。
その作法は、民数記4章に記されている。
『宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである。』(民数記4:15)
つまり、神の箱は、大祭司の子孫によって梱包された上、レビ人のコハテ族が担ぎ棒で担いで運ぶものであり、この取り扱いを一歩間違えると、「死ぬ」恐れがある事が、元々記されている。
だから、箱が晒された状態で、コハテ族以外の者に、それも牛車で運ばせるなど、とんでもない事だったのだ。
かつて、主の箱が、御者のいない牛車に載せられて、ひとりでにイスラエルへと戻るように仕向けて下さった主は、今回、牛がひっくり返さないようにする事など、当然出来たはずである。
それなのになぜ、主は、大勢の人達が集っているイベントの真っ最中、しかも、その熱狂が最高潮に盛り上がっている時に、この事をおこされたのか。
もし、ダビデのこの斬新な企画が、何の落ち度もないまま進んで行っていたとしたら、ダビデ達は確実に御言葉に聞かない方向へと進んで行っただろう。
「なんとなく御言葉に従っているつもり」だと思い込んでいながら、実はよく分かっておらず、企画したイベントの成功や、人々の盛り上がりにばかり苦心して、突き進んで行く内に、御言葉が「してはならない」と警告している領域を侵犯し、滅びへと突き進んでいるような事は無いだろうか。
これは、現代を生きる神の民である私達がよくよく留意すべき事である。
現代の私達が、クリスチャンイベント、礼拝イベント、伝道イベント、諸々の事を興すとするなら、それは主から出たもの・主を中心とするべきものである。
もし私達も、主が、そして御言葉が置き去りにされたまま、人の祭りに酔いしれるなら、何かしらの犠牲を伴う警告が与えられるものである。
『その日ダビデは主を恐れて言った、「どうして主の箱がわたしの所に来ることができようか」。』(2サムエル記6:9)
ダビデは恐れ、このイベントを急遽中止したが、『主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。』(箴言1:7)
ここからダビデは御言葉に求め、人が主体である事を捨て、主が主体であるべきだとする思いが芽生えただろう。
私達も、良かれと思っていた方法を進めている時に、いきなり冷水を浴びせられるような事が起きるかもしれない。
その時は、御言葉に立ち返るべき時である。