メッセージ - いのちを産まなかったミカルの特徴(2サムエル記6:16-23)
いのちを産まなかったミカルの特徴(2サムエル記6:16-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-7-31 23:50
いのちを産まなかったミカルの特徴(2サムエル記6:16-23)
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主の箱がいよいよダビデの町に入った。
最初、御言葉を守ろうという姿勢も、主への敬いもないまま運び入れようとした時は、痛い目に遭ったが、御言葉を遵守し、心して臨んだ結果、事は成功し、しかも、大きな喜びがあった。
それは現代、教会や主の働きにおいても同じである。
『人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。』(2サムエル記6:17-18)
ダビデはこの時、祭司やレビ人と同じ服装、すなわち亜麻布のエポデを身にまとって、人々を祝福した。
王たる者が、祭司のようになって、人々を祝福する。
ダビデはまさに、王の王であり、かつ永遠の大祭司であるイエス・キリストのひな形である。
祝福する事は、牧師など一部の人だけの特権ではない。一家の長や、権威的に上に立つ人は、積極的に家族や配下の人々を祝福するべきである。
『言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのである。』(ヘブル7:7)
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、子孫達を祝福したし、ボアズも自分の元で働く従業員達と祝福の挨拶を交わしあったし、ヤコブはエジプトのパロをも祝福して、その祝福された家族や配下の集団、国は祝福された。
イエス・キリストを信じて救われた人は、皆、キリストにあって祭司である。祭司であるからには、神と人との間に立って執り成し、祈り、祝福するという「祭司の務め」を果たすべきだ。
『そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。』(2サムエル記6:19)
エルサレムという都に主の契約の箱が入った時、ダビデが全ての男性・女性にもごちそうを配ったように、主イエス・キリストが栄光を帯びてやがて来られる日、主は、主を望みつつ歩んできた全ての人達を、男も女も天の大祝会に招き入れ、彼らを慰め、喜び楽しませて下さる。
『万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。』(イザヤ25:6-9)
私達・教会(キリストに召しだされた「人達」)は、まことの花婿・キリストを迎える「花嫁」すなわち「新しいエルサレム」である事が、黙示録に記されている。
花婿が花嫁の所に入って来た時、花嫁に大きな喜びが沸き起こるように、王の王である花婿キリストが花嫁エルサレムに入ってくる時、都全体はこぞって、大いに喜び楽しむ。それは、彼女(新しいエルサレム=教会=私達キリスト者)は、花婿キリストと永遠に一緒になり、もはや涙も悲しみも無く、永遠の安息を得るからである。
さて、エルサレムに主の箱が入ってきた時、それを一緒に喜ぶ事をせず、窓からダビデを見下ろし、蔑んでいた者がいた。
『主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。』(2サムエル記6:16)
彼女は、主の箱が自分の町に入って来た事、主の栄光と臨在が共に住まわれる事の喜びで心を満たすのではなく、彼女の夫であり王であるダビデに対する蔑みで心をふくらませていた。
『ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。』(2サムエル記6:20)
ダビデは家族を祝福するために入ってきたのに、ミカルはそれを遮って、自分の中で膨らませていた不満をぶちまけた。
祝福をしてくれる人、すなわち、主を畏れ敬う主人を蔑む人は、いのちの祝福を受けられない。
ミカルは、ダビデに王として威厳を保つべき事を、求めたのだろう。
王たる者は、民草と対等になってはならない、王服を脱ぐべきでない、と。
しかし、神の国においては、自分という「王」の上に、さらに王の王たるお方がおられ、そのお方の前では、むしろ自分の王服を脱ぐべきであり、自分の冠を外すべきなのだ。
『ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。』(2サムエル記6:21-22)
ダビデは自分よりももっと「王」なるお方、すなわち、自分も、ミカルの父をも、王として下さったお方がおられる事を、ミカルに言った。
さらにダビデは、自分はもっともっと主の前に低くされて行く、と告白し、また、自分が王として君臨する事より、むしろ、ミカルが「家来たちのはしためら」と呼んで蔑んだ人達から、誉れを受ける事のほうを望んだ。
王であられる立ち位置を捨てて、へりくだり、人と同じようにいやしくなり、蔑まれているような人々の友となり、そして、人々の前で裸をさらした。
キリストはまさにそうだった。
彼は王であられる立ち位置を捨てて、人と同じようになり、また、偉いと見られている人々から蔑まれ、むしろ子供や遊女や取税人からほまれを受けた。
彼はあざけられ、罵られ、その衣服は人々によってくじにかけられ、十字架の上で裸を晒された。
『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)
キリストは自分を卑しくし、死に至るまでも忠実だったからこそ、何にもまさる栄誉が与えられたように、ダビデもまた、主の御前では王服を脱ぎ、王座を降り、自分を低くしてへりくだる心を持っていたからこそ、高められたのだ。
自分を低くする者は高められ、高くする者は低くされる。(ルカ14:11)
ミカルは「サウルの娘」という呼ばれ方はされていても、「ダビデの妻」「王妃」という呼ばれ方はされなかった。
ミカルも、彼女の父も、あくまで自分という王座から降りない道を貫き通したが、ミカルはどうなったか。
『こうしてサウルの娘ミカルは死ぬ日まで子供がなかった。』(2サムエル記6:23)
ミカルからは、いのちが生まれなかった。
ミカルのような性質の人、すなわち、自分が王であろうとする人、祝福すべき夫や権威を敬わず、いつも自分が上となって意見していたい人には、主はいのちを任せられないのだろう。
私達は、まことの王、まことの夫である主キリストを前にした時、自分の王座を降り、主に全てを譲り、主のなさる事を喜ぶべきである。
そうするなら、主は豊かにいのちを与えて、任せて下さる。