メッセージ - 遣わされる働き人の心得(出エジプト記3−4章)
遣わされる働き人の心得(出エジプト記3−4章)
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週報/メッセージ(説教)概要
バビロン化が進んでいく昨今の世界の中において、私達キリスト者はますますきよい者として自らを保ち、御言葉に留まり、働き人としての分を果たさなくてはならない。前回、ダニエルとその3人の友人の有り様から学んだが、今回はモーセの召命の場面から、実際に「働き人」として遣わされて行く有り方を学びたい。
『さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。』(出エジプト記3:10)
モーセが召命を受けたのは、80歳という高齢になってから、だった。40年前のモーセだったなら、二つ返事でOKしたかもしれない。しかし主は、人間的なヤル気が大きく気力にあふれている時は、必ずと言っていい程、ご自身のご用のために用いられることは、無い。主は、弱い者を、用いられる。
ギデオンもエレミヤも、自分が若い者だと言う時に召し出し特別なミッションに就かせられた。
80歳。十分な年齢である。これから何かするには、あまりに歳をとりすぎていたが、主が召したのはその時だ。『主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。』(2コリント12:9) 何故、弱く小さい人に、主の働きが出来るのか。
「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわした”しるし”である。」(出3:12)
主が共にいる、これこそ、働き人に必須のしるしだ。御言葉は、主ご自身であり、生きておられる。
もし「私達の中に御言葉があり(主が共におり)」、その御言葉が内側でじっとしておれず、出たい出たい、口から発せられて、あの人の所に入って行きたい、と感じるとき、その御言葉を発するべき時である。
エレミヤは、自分の口からもしその御言葉が発せられたら、相手がどんな非道い反応をするか知っていても、発せずにいたなら、自分の中で火となって燃え上がり、焼かれるような思いがした程だ。(エレミヤ20:9)
続いてモーセは、もし自分が遣わされた場合、あなたの名を何と紹介すれば良いですか、と問うた時、『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。』(出3:14) 「I AM THAT I AM」すなわち、神は、「存在する」という名である。これが、私達が相手に伝えるべき主の名であり、アイデンティティである。
イエス様は、「わたし(イエス様)は、在る」事を認めない人は、罪のうちに死ぬ、と言っている。(ヨハネ8:24)
わたしは有る、ギリシア語ではエゴ・エイミーと言うが、人類全ての人には2つの選択肢がある。
自分のエゴを貫き通して、罪の内に死ぬか。それとも自分のエゴを降ろし、イエス様の「エゴ・エイミー」を認めて永遠の幸いといのちを得るか。私達が主を伝える時、必ず主が在るお方である事、そのお方を受け入れるべき事を伝えなくてはならない。神は、いつでも、どこでも「有る」お方。仕事場でも家でも、そして今この時でも。この「在るお方」が「共におられる」というしるしを拠り所とし、私達は遣わされていくのである。
「わたしがあなたを遣わす」「わたしはあなたと共にいる」と主が言われたのに、モーセはまだまだ不安だった。(出エジプト記4:1) そこで神は証拠としてのしるしを与えられる。その真っ先に与えられたしるしは、杖を蛇に変えるしるしである。(4:2-4) 蛇といえば真っ先にサタンを思い出すが、なぜ「蛇」なのか。
神はサタンに活動許可を与えて放つ事も出来れば、サタンをもつかんで封じる権威もあるのだ。
私達にも、蛇をもつかむ権威が与えられている。(マルコ16:18) もし羊達を支配する道具である杖を放棄し地に放り投げてしまうなら、それは蛇となってサタンの野放し状態になってしまう。私達はしっかり羊を治める杖を握り、たとえそれが蛇であっても、掴んで羊の杖に戻し、罪を治めるべきなのだ。
『モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」』(出エジプト記4:10)。 モーセは、これだけしるしが見せられ、主が共におられる事を示されるに及んでも、なお、他の人を遣わして下さいと求めた。
主がそこまで示して下さったのに、なお断るというのは、愚かさである。私達は主からどんなに素晴らしい御言葉を与えられ、しるしを見せられただろうか。それをじっくり味わい知ったなら、遣わされ行くべきだ。この日本と世界に遣わされ、造り変えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!