メッセージ - 恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-8-14 23:50
恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
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音声
『時にダビデは言った、「サウルの家の人で、なお残っている者があるか。わたしはヨナタンのために、その人に恵みを施そう」。』(2サムエル記9:1)
ダビデは周囲の敵を平定し、主から多くの祝福を受けた。それで彼は、恵みを施すおおらかさが生まれた。
なにしろダビデは、この章だけで3度も「恵みを施そう」と言っている。(1,3,7節)
恵みとは、本来それを受けるに値しない者が、ただ一方的に「いただく」ものである。
恵みを受ける人に少しでも主を恐れ敬う心がある人なら、大きな恵みをいただいた時、ゆとりや満足が生まれるばかりでなく、同時に恐れも生じ、自分も誰かに恵みを施さなくては、という気持ちになる。
そのような人は、ますます主への恐れ敬いが生まれ、喜んで分け与えるようになり、ますます祝福されて行くというサイクルに乗り、周りの多くの人に恵みを施して行くようになって行くが、恵みを受けても感謝が無く主を敬わない人は、ただ小さな恵みを受けたっきりで終わってしまう。
『王は言った、「サウルの家の人がまだ残っていませんか。わたしはその人に神の恵みを施そうと思う」。ヂバは王に言った、「ヨナタンの子がまだおります。あしなえです」。王は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。ヂバは王に言った、「彼はロ・デバルのアンミエルの子マキルの家におります」。このサウルの孫、ヨナタンの子は、ロ・デバルに住んでいた。』(2サムエル記9:3-4)
このロ・デバルの地名の意味は「牧草地なし」「言葉なし」。ヨルダン川東側、ヤボク川の北に位置したと考えられている。
かのサウル家の生き残り、ヨナタンの子は、そんなへんぴな土地で、マキルという人の家を間借りし、ひっそり住んでいた。
おそらく、ダビデを恐れていたからだろう。
なにしろサウルはダビデを悪くあしらったし、また当時、新しく王になった場合は、前の王の一家一族を絶やして謀反を防ぐのが通例だったからである
しかしダビデは、そんな世の通例とは真逆の行動をする。
『ダビデ王は人をつかわして、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家から、彼を連れてこさせた。サウルの子ヨナタンの子であるメピボセテはダビデのもとにきて、ひれ伏して拝した。ダビデが、「メピボセテよ」と言ったので、彼は、「しもべは、ここにおります」と答えた。ダビデは彼に言った、「恐れることはない。わたしはかならずあなたの父ヨナタンのためにあなたに恵みを施しましょう。あなたの父サウルの地をみなあなたに返します。またあなたは常にわたしの食卓で食事をしなさい」。』(9:5-7)
ダビデはまず「恐る事はない」と、声をかけた。
きっとメピボセテは、震えおののいていたのだろう。
しかしダビデは、自分はあなたに恵みを施すつもりであなたを探し、自分の所に住まわすために呼んだのだ、と、言葉をかけてやった。
しかも、祖父サウルの領地を返し、ダビデの子達と共にいつもダビデの食卓にあずかれる者とした。
ダビデ、なんと太っ腹でおおらかなのだろう。
イエス・キリストの恵みも、そのとおりである。
私達もメピボセテのように、本来は殺されて同然の者だった。
暗黒の地でひっそりと神の目を避けて、ただ、さばきを恐れて暮らしているような者だった所を、王の王であられる主は探し、呼び出してくださり、父祖や自分自身が犯して来た罪は一切、免除してくださり、神の子達と共に天の食卓にあずかる者とされた。
『彼は拝して言った、「あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか」。』(2サムエル記9:8)
少し前にも聞いた言葉である。
そう、ダビデも7章18節で、主に申し上げている。
「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。・・・。」(2サムエル記7:18-20)
ダビデは、神様から驚くばかりの恵みを受けたから、大いにゆとりが生まれ、恵みを施したくて施したくて仕方のない程のおおらかさを身につけたのだ。
私達も、誰かに恵みを施すとするなら、まず、私達自身が神様からの恵みを既に受けていると、充分に知り、感じ、感謝しなくては出来ない。
また、ダビデやメフィボシェテが告白したように、自分自身がいかに取るにたりないかを覚えていなくてはならない。
そうでないと、恵みを受ける事を当然のものとして高慢で恩知らずになり、振り出されてしまうからだ。
『ヂバは王に言った、「すべて王わが主君がしもべに命じられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてメピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした。・・・メピボセテはエルサレムに住んだ。彼がいつも王の食卓で食事をしたからである。彼は両足ともに、なえていた。』(2サムエル記9:11-13)
私達もキリストにあって、本来そういう者ではないのに、天の御国の食卓に連なる者とされた。
主から大きな恵みを受けた私達は、ダビデのように、さらに他の人達にも施すべきだ。
そうするなら、ますます主に祝福されるサイクルに乗り、さらに周りの多くの人に恵みを施せるようになって行くからだ。