メッセージ - 肉欲発散という誤った選択をし続ける事の恐ろしい罠(2サムエル記11:1-5)
肉欲発散という誤った選択をし続ける事の恐ろしい罠(2サムエル記11:1-5)
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- 執筆 :
- pastor 2015-8-19 23:00
肉欲発散という誤った選択をし続ける事の恐ろしい罠(2サムエル記11:1-5)
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『春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。』(2サムエル記11:1)
ダビデは、強力なシリヤとの戦いには、自ら全軍を率いて戦い、打ち破って平定したが、残すアンモンとの戦いには自分は行かず、部下たちに任せ、エルサレムの王宮に留まっていた。
ダビデには、少しの「なまけ」が始まっているが、なまけを放置するなら、諸々の良くない物事を呼び寄せてしまう。
『なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。』(箴言6:9-11)
『さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、 王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。』(2サムエル記11:2)
部下たちが命の危険を冒して戦っているのに、ダビデは、日中に寝、夕暮れに起きる、という事をしている。
ダビデの「なまけ」がさらに成長している事がわかる。
さて、ここはダビデが”たまたま”屋上を歩いていると、”たまたま”女が身体を洗っている姿が見えた、と、日本語では受け止められるが、原語を見ると、そういうわけではないようだ。
この「歩く(ハーラフ)」には、ヒットパエル態が使われており、すなわち、彼は「自分から、自覚的に、自発的に」屋上を歩いたのであり、また、美しい女が体を洗っているのを「見た」という言葉は「ラアー」であり、すなわち、ダビデは「心して、楽しみつつ、見た」のである。
ユダヤでは、夕暮れに屋上で水浴びをする、という事は多々ある。
なぜなら律法上の「汚れ」を受ける事は頻繁にあり、その汚れを清めるためには、日が沈むまでに体を洗って清くするべき事が、律法で命じられているからである。
つまり、ダビデが”敢えて”夕暮れ時に、眺めのいい王宮の屋上に出て歩いたのは、もしかしたら、そのような「のぞき」をする意図があった事も、十分考えられる。
あの偉大な王ダビデが、部下たちが皆戦いに出ている時期、昼に寝て、夕暮れ時に起き出し、意図的に宮殿の屋上に登り、女が水を浴びているのを楽しみながら見る。
あのダビデが、そんな事を、と驚くかもしれない。
しかし、昨日まで清く正しく歩んでいた人が、今日、信じられないような不祥事を犯してしまう、という事は、ニュースでは頻繁に流れている。
なぜなら、御霊にある正しい歩みと、肉にある罪の歩みは、日々の瞬間瞬間の決断と選択に依るものであるため、たとえ100日間、御霊にある歩みをしていても、101日目には霊的に怠けて、肉欲の赴くままに罪を犯してしまう、という事は、十分あり得るからだ。
あたかも、仕事という「オンタイム」から離れて、「オフタイム」にリゾート地で羽を伸ばすように、正しい義の歩み・聖なる御霊の歩みを何やら”勤め事”のような「オンタイム」とし、余裕が出来た時には、肉欲のリゾートで罪の「羽伸ばし」を満喫したい、という価値観・世界観で生きているとしたなら、いつ、今まで積み上げてきた信頼や名声を一気に失ってしまう大転落をしても、おかしくはない。
あまたの有名な先生や、偉人聖人と言われている人々が奈落へと転落して行った「夕暮れ時」を、私達も心して取り組まなくてはならない。
人は、肉の体をまとっているため、意識して御霊の歩みをしないなら、自動的に肉の歩みをするものである。そのほうが肉の体はラクだからだ。
日々を御霊にあって歩み続けているなら、その方向性が習慣づけられ、半自動的に御霊の選択と歩むが出来るのだが、ひと度油断し、昔歩んでいた肉の歩みをなつかしんで、そちらに思いを馳せて、実行してしまうなら、そちらの方へと、のめり込んで行ってしまうものであり、やがては、主の介入なしには抜け出し不可能となってしまう。
『ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありません か」。』(2サムエル記11:3)
ダビデは「見る」だけで終わるではなく、その女について調べさせ、素性を突き止めさせるという、また一歩「誤った方向への選択」をした。
その女は、エリアム(名の意:神の民)の娘であり、ヘテ人ウリヤ(名の意:主の光)を夫に持つ、人妻であった。
エリアムも、ウリヤも、共にダビデ30勇士の一人であり(2サムエル記23章)、ダビデとイスラエルに尽くしている有能な部下である。
『そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。』(2サムエル記11:4)
なんとダビデ、ついに、「人妻と寝る」という、律法では死罪に当たる罪(レビ20:10)を、選択してしまった。
ダビデは、彼女は神の民(エリアム)の娘、主の光(ウリヤ)の妻であると聞いておりながら、彼女を寝とってしまった。
ひと度、肉欲の暴走に自ら火をつけるなら、歯止めは効かないものだ。
『女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、「わたしは子をはらみました」。』(2サムエル記11:5)
ダビデ達は、一夜かぎりのこの逢瀬によって、子を宿す。
日本では、身ごもる事は「おめでた」と言うが、当の男女にとって「めでたくない」身ごもりは、全て、罪の結果だ。
ダビデはこの章で、「聖」か「罪」かを選択する場面で、ことごとく、罪のほうを選択して行った。
最初、夕暮れ時に屋上を自ら進んで歩いたのは、ちょっとしたいたずら心や、ふざけ心の類からだったかもしれない。
しかし、意図して罪の選択をし続けるなら、だんだんその道から離れられなくなり、ついには、王たる者、偉大なものに相応しくない行動へと発展してしまう。
私達はそれを治めなくてはならない。
罪を治める事は、可能である。
どのようにしてか。それは、法則に乗る事によって、である。
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この”いのちの御霊の法則”こそ、罪と死の法則に対抗する唯一の手段である。
全ての人は、重力の法則に縛られ、地上から離れられない。しかし、飛行機に乗るなら、地上を離れる事が出来る。
同じように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るなら、罪と死の法則から離れる事が出来るのだ。
飛行機に乗って飛ぶ事には自分の能力や頑張りは関係無いように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗る事も、自分の能力や頑張りは関係無い。
どうしたらこの法則に乗っかる事が出来るのだろうか?
それは「継続的な選択」の問題であり、肉によらず聖霊によって歩み続ける「選択」を日々、し続ける事によって、である。
肉に委ねるのではなく、聖霊に委ねて生きる時、きよい生き方をする事に霊は安息を覚え、罪の生き方をする事に苦しさを覚えるものである。
聖霊にゆだねて生きる時、罪を犯す事や、肉欲を満足させる事はもはや「リゾート」ではなくなり、御霊にあって歩む生き方こそ「リゾート」となって、ますますその方面を生きるようになって行く。
ダビデは早い段階で、肉に生きる選択を止め、御霊にある選択をするべきだった。
それをしなかったため、どんどん、戻る事が困難になってしまったのだ。
御霊にあって歩み、罪や恥、したくない悪から開放された「バケーション」を楽しむ皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!