メッセージ - ウリヤという主の光に照らされて(2サムエル記11:6-15)
ウリヤという主の光に照らされて(2サムエル記11:6-15)
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ウリヤの妻と寝たダビデは、その後、彼女を身ごもらせたという事を聞いた。彼はそれを隠蔽する工作に出る。
『そこでダビデはヨアブに、「ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ」と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。ウリヤがダビデの所にきたので、ダビデは、ヨアブはどうしているか、民はどうしているか、戦いはうまくいっているかとたずねた。そしてダビデはウリヤに言った、「あなたの家に行って、足を洗いなさい」。ウリヤは王の家を出ていったが、王の贈り物が彼の後に従った。』(2サムエル記11:6-8)
ダビデがウリヤを呼び寄せたのは、彼を、妻が待っている家に帰らせて「妻と寝る」事をさせるためである。
そうすれば、妻が身ごもっている事のつじつまがあい、ダビデとウリヤの妻の情事を、闇に葬る事が出来るからだ。
ウリヤ以外の兵士たちにとって、ダビデがウリヤを呼び出した事は、うらやましがられる事だったろう。
危険な戦線を離れ、王に直接戦況報告をする栄誉が与えられ、そして、妻が待っている家に帰って一緒の時を楽しめるのだから。
戦いの現場から久しぶりに妻の所へ帰った兵士は、当然、妻と愛の交わりをするだろう、、、ダビデはそう目論んだのだが、なんとウリヤは、それをしなかった。
『ウリヤはダビデに言った、「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。あなたの魂は生きています。わたしはこの事をいたしません」。』(2サムエル記11:11)
彼はなんと誠実な人だろうか!
同志達も上官も、そして、イスラエルの神・主も、戦いに出て野営している。
それなのに、自分だけ家に帰って妻と楽しむ事など、イスラエルの王であるあなたの前には、決してできない、と言うのだ。
それに引き換え、ダビデ王は一体、何をしたのだろうか。快適な王宮で昼寝をするにおいても、女と情事を楽しむにおいても、ウリヤとは全く逆の事をしていたではないか。
ダビデは、ウリヤ(主の光)が、眩しくて仕方なかったに違いない。
『ダビデはウリヤに言った、「きょうも、ここにとどまりなさい。わたしはあす、あなたを去らせましょう」。そこでウリヤはその日と次の日エルサレムにとどまった。ダビデは彼を招いて自分の前で食い飲みさせ、彼を酔わせた。夕暮になって彼は出ていって、その床に、主君の家来たちと共に寝た。そして自分の家には下って行かなかった。』(2サムエル記11:12-13)
ダビデは今度は、ウリヤを、ダビデの目の前で飲ませ、酔わせた。
もしかすると、”綺麗事”を言っている彼も、酒に酔ったなら、我慢する心を手放して、家に帰り、妻と寝るかもしれない、と思ったのであろう。
しかしウリヤは、酒を飲まされても、主と主君とに対する忠誠を失わなかった。
ダビデはますます主の光に照らされ、さぞ眩しかっただろう。そして、恐れも生じただろう。
主と共に歩んでいる人は、本人にはその気は無くとも、うしろ暗い闇を抱えている人が見るなら、眩しくて、恐れを抱かせるものだ。
もはや、自分の罪を隠す手立てを、失ってしまったダビデ。
全てを告白して赦しを乞うか、それとも、あらゆる力を駆使し、あくまで「光」を覆い隠そうとするかの、二者択一が迫られたが、ダビデは非常に残念な決断をしてしまう。
『朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。』(2サムエル記11:14-15)
以前のダビデを知っている私達には、到底信じられないような事を、彼はするようになってしまった。
王としての権威を用い、この、有能で誠実な部下を謀殺する指示を、彼自身に持たせてヨアブに届けさせたのだ。
第一サムエル記のダビデ登場から、第二サムエル記の10章までだけを読むなら、ダビデは偉大な王だった。
しかし、この11章1節からの、たった15節を読むだけで、ダビデがそれまでして来た素晴らしい信仰の実績は、全て色あせてしまう。
人は罪と肉に心を許し、その方面に意図して歩むなら、いとも簡単に、なし崩し的に転落してしまう事を、私達キリスト者は、心して気をつけるべきである。
あたかも、仕事から離れてリゾート地で羽を伸ばしたいと切に願うかのように、正しい義の歩み・御霊にある歩みを離れて、肉欲のリゾートで罪の羽を伸ばしたい、と、日々心で願望している人は、ダビデのように、いつ積み上げて来た信頼や名声を失墜してしまっても、おかしくはない。
肉欲の発散はバケーションなどではなく、罪と死に追い使われる過酷で苦々しい奴隷生活の発端である事、そして、御霊にある歩みこそ、罪と死の束縛から開放された真のバケーションである事を、私達キリスト者は真に知るべきだ。