メッセージ - モアブに対する宣告:親族を救う事へのうめき(イザヤ15章)
イザヤ書講解説教メッセージ
モアブに対する宣告:親族を救う事へのうめき(イザヤ15章)
Youtube動画
メッセージ音声
【概要】
イザヤ書15章を通して、モアブに対する神の裁きと哀れみについて語られています。
【聖書箇所】
イザヤ書15章1-9節
【戒めの言葉】
神の恵みから離れることは、人を残虐にし、最終的には滅びに至らせます。
【悔い改めの促しの言葉】
神様は長く忍耐されますが、悔い改めないなら最後には裁きが来ます。
【***詳細***】
今日の箇所はイザヤ書15章です。1節から9節までありますが、まず1節を読みます。
「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅び果てた。」
この章は、イスラエルの南東に位置するモアブの国に対する神の警告の言葉です。前回までのアッシリアやバビロンに対する裁きの宣告とは異なり、モアブに対する神の言葉には悲しみが満ちています。神の哀れみと愛を感じさせる内容となっています。
モアブの起源を振り返ると、モアブはロトの子孫です。ロトはアブラハムの甥であり、ソドムとゴモラから逃れた後、自分の娘たちとの関係から生まれた子がモアブとアンモンの先祖となりました。つまり、モアブはアブラハムの親戚関係にあたります。
しかし、モアブは偶像崇拝に陥り、ケモシュという偶像を拝み、子供を焼いて捧げるような残虐な宗教を行っていました。イスラエルとモアブの関係は、まるで私たちクリスチャンが少数派である日本で、偶像礼拝をする親戚がいるような状況に似ています。
皆さんも、もし偶像礼拝をする親戚や家族がいたら、その人たちが救われることを願うでしょう。どんなに長い間嫌がらせをされても、blood関係の人が救われることを祈り続けるものです。
しかし、何度も悔い改めを促しても悔い改めず、主の御言葉を伝えても受け入れず、イエス様の憐れみを示しても受け取らないなら、やがて主の時が来てしまいます。
モアブは何度も何度も神のイスラエルを攻撃し、嫌がらせを続けました。ついに、アッシリアによってモアブの町々は短期間のうちに滅ぼされてしまいます。
2節を見ると、「モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために登る。ネボとメデバのことでモアブは泣き喚く。頭は皆丸くなり、ひげは皆切り取られる。」
様々な地名が出てきますが、これらはモアブの主要な町々です。歴史的には、アッシリアによってこれらの町々はたちまちに飲み込まれるように滅ぼされてしまいます。
モアブの人々は、自分たちの偶像の神々に助けを求めますが、それらは何の力も持ちません。たとえ自分の子供を犠牲として捧げても意味がありません。人が作った神は、絶対に応答しないのです。
主は、このモアブのために叫ぶと言っています。神はもともとアブラハムの親族として救われることを望んでいました。アブラハムもロトのために取り次ぎの祈りをしました。しかし、モアブは立ち返ることをせず、ついに滅ぼされるべき時が来てしまったのです。
人は働くと給料をもらいますが、同様に悪いことをすれば、その報いとして災いを受けることになります。ロトはアブラハムと共に出発しましたが、アブラハムから離れて罪の地に住み、ソドムとゴモラから救い出されても、アブラハムのもとに戻ることなく、自分の好きなところに住み、罪の子孫を産みました。
アブラハムから離れれば離れるほど、ロトの子孫は悪くなっていきました。最終的には、自分の欲を満たすために子供まで焼いてしまうほどになってしまいました。これは恐ろしいことです。神の恵みから遠ざかると、人は残虐になっていくのです。
神の恵みを一度味わって、その後恵みから離れた者は、その時間が長ければ長いほど、神に反逆し、残虐な人間になります。モアブがまさにそうでした。
ロトがソドムとゴモラから逃げるとき、神の使いは山、つまりアブラハムの住んでいる方向に逃げるよう指示しました。しかし、ロトは低地の方向に逃げました。これが運命の分かれ道となったのです。
アブラハムと共にいれば、このようなことは起こらなかったでしょう。私たちは、信仰を貫く人々がいるところに自分の身を置くべきです。ロトは助かりましたが、信仰がない場所に行き、そこで罪を犯し、モアブとアンモンという民族が生まれました。その結果、後には自分の子供を焼いて偶像に捧げるまでに堕落していったのです。
5節には、「わたしの心はモアブのために叫ぶ。逃げる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまで行く。ルヒトの坂を泣きながら登り、ホロナイムの道で破滅を嘆き叫ぶ。」とあります。
モアブの北から南まで、全土にわたって嘆き叫ぶ声が聞こえてくると預言しています。
神は好んでモアブ人を殺すわけではありません。この15章には何度も「ああ」という言葉が出てきます。神の深いうめきを感じさせる章です。
罪から来る報酬は死です。人が自由意志を持って罪とその報酬である死を選び続ける限り、神にはどうすることもできません。
私たちも、神を知らない人々、伝道しても神を敬わない人々がいるなら、福音を伝え、取り次ぎの祈りをすべきです。モアブはイスラエルを呪いましたが、神の民を呪うことは、神を呪うのと同じです。
モアブに対して神の憐れみがあったのは、アブラハムの取り次ぎの祈りがあったからです。長い間、アブラハムの祈りのおかげで、モアブには猶予期間が与えられていました。取り次ぎの祈りは本当に大切です。
【結論】
私たちは、家族や親族、友人たちのために取り次ぎの祈りを続け、福音を伝え続けるべきです。神の恵みから離れないよう気をつけ、悔い改めて主の御前に立ち返ることが大切です。救いのために祈り、伝道に励む者となりましょう。