メッセージ - 子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-9-5 16:17
子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
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『兄アブサロムは彼女に言った、「兄アムノンがあなたと一緒にいたのか。しかし妹よ、今は黙っていなさい。彼はあなたの兄です。この事を心にとめなくてよろしい」。こうしてタマルは兄アブサロムの家に寂しく住んでいた。ダビデ王はこれらの事をことごとく聞いて、ひじょうに怒った。』(2サムエル記13:20-21)
このわずかな節から、ダビデ王が長男アムノンを普段、どのように扱って来たかが、大体想像できる。
ダビデ王は、この一連の事件を「聞いてひじょうに怒った」事は書いてあっても、その事でアムノンを懲らしたり、責任を取らせたりした記述は無い。
今回の被害者・タマルは、兄アブシャロムの家でわびしく住んでいた、という事は、ダビデは、アムノンが取るべき責任を取らせず、そのままにしていた、という事だ。
つまりアムノンは、普段から、衝動的・突発的に何かをしてしまった時も、大目に見られ、その事の責任を取らされて来なかったと想像できる。
だからあの事をたくらみ、「今回もなんとかなる」「律法にはああ書かれてあるけれど、自分はこれをしても、罰は及ばない」などと思って、事を起こしたのだろう。
確かにダビデも、律法に照らすなら、死ぬべき罪を幾つか犯している。
しかし、ダビデが赦され、生きながらえているのは、少なくとも彼は自分の罪を認め、悔い改め、そして自分が被害を与えたバテ・シェバに対しては、しっかり責任を取ったからだ。
それなのにアムノンは、お咎めなしのまま放置されてしまっている。
とするなら、それはアムノンを滅びへと至らせてしまう事だ。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言23:13-14)
『「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:5-7)
聖書は、子を懲らしたりむちを加える事によって、子から愚かさを削ぎ落とし、悪から救い出すようにと色々な箇所で示している。
しかし現代日本では、懲らしめはタブー視されている。
そのようにして育てられた子は、アムノンのように、激しく思うと歯止めが効かなかったり、何か事を犯しても、それを自分が責任を取る事をすっかり抜かしてしまうようになってしまうものだ。
ダビデは、アムノンを懲らしめたり、責任を負わせたりする事をしなかった。それが為に、彼を滅びと至らしめてしまう。
ダビデは、アムノンと同じような事をした過去を持っているため、うしろめたさがあったのかもしれない。それで強く言えなかったのかもしれないが、相手が自分と同じ罪を犯したなら、なおさら、経験した者としていっそう強く言うべきだった。
ダビデは、姦淫の罪を指摘された時、詩篇51編でこう告白している。
『あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。そうすればわたしは、とがを犯した者に/あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。』(詩篇51:12-13)
彼は、もし自分を赦して下さるなら、「とがを犯した者に/あなたの道を教え」ましょう、と、この時約束している。
しかし彼はそれをしなかった。
こうして、何も取り扱われないまま、月日が過ぎていく。
『アブサロムはアムノンに良いことも悪いことも語ることをしなかった。それはアムノンがアブサロムの妹タマルをはずかしめたので、アブサロムが彼を憎んでいたからである。』(2サムエル記13:22)
タマルの兄・アブシャロムは、表向き、何もないかのように装っていたが、心はそうでななかった。
ダビデは特に何もしないまま、アムノンは平然としたまま、そして、アブシャロムは殺意の心を熟成しながら、2年の月日が過ぎて行き、そしてある日、事件が起きてしまう。