メッセージ - ダマスコに対する宣告 - 神の民と交わる異邦人への憐れみ(イザヤ17章)
ダマスコに対する宣告 - 神の民と交わる異邦人への憐れみ(イザヤ17章)
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- 執筆 :
- pastor 2015-9-5 23:26
イザヤ書講解説教メッセージ
ダマスコに対する宣告 - 神の民と交わる異邦人への憐れみ(イザヤ17章)
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メッセージ音声
【概要】
本日の説教は、イザヤ書17章をもとに、ダマスコに対する神の宣告と、罪に陥った民への厳しい警告、そして悔い改めと神の憐れみの望みについて語られています。
【聖書箇所】
・イザヤ17:1‐11(ダマスコに対する宣告、イスラエルとの関わり、そして残された憐れみについて)
【慰めの言葉】
主は、厳しい裁きの中にも、ご自分につながり信頼する人々にわずかでも憐れみのしるしを残される方です。
【戒めの言葉】
私たちは、偶像やこの世の価値観に流されると、神の民としての誇りを失い、滅びの危機にさらされるという真実を、決して忘れてはなりません。
【悔い改めの促しの言葉】
自らの罪と弱さを認め、神の前に心から悔い改めることが、救いと再生への唯一の道であることを、改めて訴えています。
【勧めの言葉】
日々の生活において、真の信仰と献身をもって神に立ち返り、世俗的な誘惑に屈しない堅固な意志を持って生きるよう努めるべきです。
【***詳細***】
本日の説教は、まず冒頭で「イザヤ書17章」を読み上げながら、ダマスコに対する宣告の御言葉に触れています。冒頭の一節では、ダマスコが「取り去られ、町で滅び、廃墟となる」と預言され、これは単に古代のシリア地方の一都市が破壊されるという歴史的出来事だけではなく、私たちの罪深い状態、すなわち神に背いた結果としての霊的な廃墟状態を象徴していると語られました。説教者は、自分たちが犯してきた罪や、神と人との関係を乱すあらゆる行為を、全面的に投げ捨て、清められた存在となるよう、神に整え直していただくことを願う祈りを捧げます。
次に、説教はダマスコというシリア地方の中心都市が、かつてアラムという国の中で果たしていた重要な役割や、北イスラエル王国との活発な交流に触れます。当時、ダマスコは文化と交流の中心地として輝いていましたが、同時にその繁栄の影で不誠実な信仰や、偶像に頼る生活が横行していたと指摘されます。すなわち、イスラエルとの交流の中で、真実の神を信じる姿勢が薄れ、他国の価値観や神々に頼ろうとする態度が見られたため、神の怒りが下される結果となったのです。説教者は、これを現代のクリスチャンに対する警告としてとらえ、世の中の享楽や誤った価値観に流されると、結局は神から受けるべき憐れみさえも遠ざかってしまう現実を告げています。
また、イザヤ書の中で語られる裁きの中には、ただ断罪だけでなく、厳しいながらもごくわずかに神の憐れみが残されるという希望のメッセージが含まれています。例えば、預言の一部では「二節以降」や「三節」において、ダマスコやエフライム(北イスラエル王国)の運命が厳しく宣告される一方で、神がわずかな残りの民に対し、栄光と救いをもたらすという描写がなされます。これは、たとえ罪深い状態にあっても、真に主に立ち返る者は神の恵みを受け入れることができるという希望でもあります。残されたわずかな実が、木の最も高い場所にあるために人には取ることができないように、神はご自身に忠実な人々を決して見捨てません。
さらに、説教の中盤では、イスラエルの民が偶像崇拝へと走り、本当に与えられた「ブドウの種」を神から受け取るのではなく、他国のものに頼ってしまったという事実が挙げられます。その結果、彼らは自分たちが育てた見かけの実(偽りの祝福)を、神の厳しい裁きによって刈り取られてしまうことが語られます。現代の私たちにおいても、社会の中で作り上げられる価値観や、自分たちが自ら築き上げた偶像に依拠する生活は、いずれ神の前で厳しく問われることとなります。説教者は、こうした危険性を具体的な例えを用いて力強く伝え、私たち一人一人に対し、本来あるべき神との正しい関係を取り戻すため、悔い改める決断を促しています。
その後、説教は国々の民や大水の轟のような勢いを例に出して、神の裁きの速さと確実さについても語られます。たとえ、どれほど巨大な勢力であっても、神がお叱りになると、それは風の前のもみ殻のように散ってしまいます。実際に、アッシリアという大国がイスラエルを囲むほどの軍勢を率いても、神の一声によってその威勢は一朝にして崩壊したという歴史的事実が示されています。これは、今を生きる我々に対し、世の権勢や自らの力に頼ることの無意味さを強調するものです。
そして、説教の終盤では、教会に属する私たちが、神の御前にふさわしい働き人として清められるべきだという決意が表明されます。私たちは、世俗の価値観に染まってはならず、神の御心に従う真実の信仰者として、日々の生活の中で自らの行いを省みるよう促されます。自分自身で築いた祭壇や作り上げた神々、さらには他国の成功や文化に傾倒することは、結局は神から離れる道であると戒められています。説教者は、今この瞬間に自分の心を神に開き、悔い改め、真の信仰に立ち返る決断をするよう、会衆一人一人に手を差し伸べています。
最後に、説教は実際の祈りの時間へと移行し、イエス・キリストの御名によって、私たちの愚かさを嘆き、悔い改めと更新を求める祈りが捧げられます。私たちは、神の御前にあって自らの弱さを認め、再び確かな信仰の歩みを始めるための内面的な変革を熱心に願わなければなりません。主の祈りをもって、日々の糧と罪の赦し、そして試練に負けない強い信仰を求めるその祈りは、現代のクリスチャンにとっても非常に大切なものであると強調されています。
このように、イザヤ書17章の御言葉を通して、我々は神からの厳しい警告とともに、悔い改めるならば必ず与えられる憐れみと救いの希望を学びます。世の権勢やその他のものに心を奪われるのではなく、たった一人一人が自らの内面を見つめ、神の御前に清く立つ決意を新たにするよう求められているのです。私たちがもし、一度でも立ち止まり、自分の行いと信仰を正しく省みるならば、神は必ずその心を清め、御前にふさわしい使徒として整えてくださいます。
【結論】
イザヤ書17章の御言葉は、ダマスコと北イスラエルの運命を預言するとともに、私たちに真の信仰と悔い改めの決断を迫っています。たとえ過ちや偶像に流れる時があっても、神は真心で立ち返る者に憐れみと救いの望みをお与えになります。私たち一人一人が自らの罪を認め、神の御前に清く立つ決意を新たにし、世の誘惑に惑わされることなく、真実の神の国を築く働き人として生きるよう、祈りと決意を新たにしましょう。