メッセージ - 子が親のものに火を放つ時(2サムエル記14:18-33)
子が親のものに火を放つ時(2サムエル記14:18-33)
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『そこで王はヨアブに言った、「この事を許す。行って、若者アブサロムを連れ帰るがよい」。ヨアブは地にひれ伏して拝し、王を祝福した。そしてヨアブは言った、「わが主、王よ、王がしもべの願いを許されたので、きょうしもべは、あなたの前に恵みを得たことを知りました」。そこでヨアブは立ってゲシュルに行き、アブサロムをエルサレムに連れてきた。』(2サムエル記14:21-23)
ダビデは、ヨアブに遣わされた知恵深い女によって、息子アブシャロムが放置されたままの状態にあるのは、良くない、という事を諭された。
ダビデはそれを受け入れ、アブシャロムをエルサレムに連れて来る事を許すのだが、『王は言った、「彼を自分の家に引きこもらせるがよい。わたしの顔を見てはならない」。こうしてアブサロムは自分の家に引きこもり、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:24)
アブシャロムと会っていない3年の間、ダビデの心はアブシャロムへと向いていた(14:1)、はずなのに、彼をエルサレムへ呼び寄せた途端、ダビデはそれとは裏腹の行動を取っている。
『さて全イスラエルのうちにアブサロムのように、美しさのためほめられた人はなかった。その足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった。アブサロムがその頭を刈る時、その髪の毛をはかったが、王のはかりで二百シケルあった。毎年の終りにそれを刈るのを常とした。それが重くなると、彼はそれを刈ったのである。アブサロムに三人のむすこと、タマルという名のひとりの娘が生れた。タマルは美しい女であった。』(2サムエル記14:25-27)
アブシャロムは、類を見ない魅力的な人物だった。
「足の裏から頭の頂まで」非の打ちどころが無く、また髪も豊富で、美しい娘も生まれている。
彼は外見が魅力的だけではなく、非常に有能な人物で、人の心を掴む事に長けており、正しい事を断行する勇気も、決断力も、それを実現させるための知恵も、忍耐力も、全て兼ね備えている。
そのような面を見るなら、彼は、次に王となるに申し分無い器として、人々の目に映っていたかもしれない。
ただ一点、ダビデの長男を謀殺した、という点を除くなら。
『こうしてアブサロムは満二年の間エルサレムに住んだが、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:28)
アブシャロムは父の近くに呼び寄せられたものの、さらに2年、放置されてしまった形になる。
ダビデがどのような心境で、どのように判断して、そのようにしたのかは記されていないため、聖書学者の間でも色々な憶測が為されているが、父親が息子を敢えて放置するなら、息子がどのように出るのか、それは容易に想像できる。
『そこでアブサロムはヨアブを王のもとにつかわそうとして、ヨアブの所に人をつかわしたが、ヨアブは彼の所にこようとはしなかった。彼は再び人をつかわしたがヨアブはこようとはしなかった。そこでアブサロムはその家来に言った、「ヨアブの畑はわたしの畑の隣にあって、そこに大麦がある。行ってそれに火を放ちなさい」。アブサロムの家来たちはその畑に火を放った。ヨアブは立ってアブサロムの家にきて彼に言った、「どうしてあなたの家来たちはわたしの畑に火を放ったのですか」。』(2サムエル記14:29-31)
ヨアブは、アブシャロムをエルサレムに引き寄せるよう取り計らった張本人であるが、どういう訳か、彼までも、アブシャロムの2度の呼びかけを放置し、彼がかつてした事とは裏腹の行動を取っている。
アブシャロムに対しては、ダビデも、ヨアブも、なぜか裏腹の行動を取る。
一体何が問題で、アブシャロムはこのようにされてしまうのか。
彼はあまりに有能過ぎる故、危険と判断されたのか、あるいは単に、父ダビデの弱さ故なのか、あるいはもっと他に理由があるのか、それらは分からない。
一つ確かな事は、親はあまりにも子を放置するなら、子から何かの形で火をつけられてしまう、という事だ。
『アブサロムはヨアブに言った、「わたしはあなたに人をつかわして、ここへ来るようにと言ったのです。あなたを王のもとにつかわし、『なんのためにわたしはゲシュルからきたのですか。なおあそこにいたならば良かったでしょうに』と言わせようとしたのです。それゆえ今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください」。』(2サムエル記14:32)
ここに、アブシャロムの心の叫びが垣間見える。
アブシャロムは、ずっと父ダビデに会うことも赦されず、何のコミュニケーションも許されず、かといって何の処断も下されず、右に行っていいのか左に行っていいのか分からない状態のまま、ずっと放置されていた。
もし処罰されるべきなら、はっきり処罰してほしい、それがたとえ死刑でもかわない、とにかく、うやむやなまま放置される事だけは、我慢ならない。
それが、子供の本心である。
『むちと戒めとは知恵を与える、「わがまま(シャラーハ:追い遣る、放任する)」にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴言29:15)
子供と正面から向き合わず、子供が望ましくない事をしても、それに対して何も処断を下さず、ただ放置しておくとするなら、子はやがて、親に火をつけるようになってしまうのだ。
『そこでヨアブは王のもとへ行って告げたので、王はアブサロムを召しよせた。彼は王のもとにきて、王の前に地にひれ伏して拝した。王はアブサロムに口づけした。』(2サムエル記14:33)
こうして、父と子の何年ぶりかの再会が実現したというに、ただ儀礼的な挨拶をした以外は、特に記されていない。
アブシャロムが切望して来た、何年ぶりかの父との再会。
それなのにアブシャロムは、「子」として「父」とコミュニケーションが出来なかった。
妹が陵辱されて以来、感じてきた悔しさ、忍耐して来た辛さ、やってしまった事のうしろめたさ、一人放置されていた事の寂しさ、人々に理解されない事の苦しさ、そうした事を打ち明ける事が出来なかった。
あまりにも親子関係の「親しさ」が無い、ただ上下関係だけが強調された、儀礼的な挨拶だけの再会に、アブシャロムはどんなに失望しただろう。
アブシャロムはこの再会の後、父ダビデ王になんとか会って話しあおうとして来た努力の方向性を反転させ、父・ダビデに反逆し、クーデターを起こす準備をするようになってしまう。
この第二サムエル記14章は、ダビデも、ヨアブも、アブシャロムに対して、裏腹な行動ばかりを取ってきた。
人の心も営みも、移ろいゆくものであり、時に裏腹の行動を取り、時に反転するものである。
第二サムエル記13章と14章で、主は全く沈黙しており、主が何かを語られたとか、何かされたといった記事は、一切無い。
ただ人の思い図りと、裏腹さだけが記されている。それらはなんの益ももたらさず、ただ崩壊へと向かうのみである。
『人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。』(1ペテロ1:24-25)