メッセージ - 手練手管で王になろうとするアブシャロムと、油注がれて王になったダビデ(2サムエル記15:7-17)
手練手管で王になろうとするアブシャロムと、油注がれて王になったダビデ(2サムエル記15:7-17)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-9-16 23:26
手練手管で王になろうとするアブシャロムと、油注がれて王になったダビデ(2サムエル記15:7-17)
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アブシャロムは、心で長い間企んでいた陰謀を、ついに実行に移す。
『四年の終りに、アブサロムは王に言った、「どうぞわたしを行かせ、ヘブロンで、かつて主に立てた誓いを果させてください。それは、しもべがスリヤのゲシュルにいた時、誓いを立てて、『もし主がほんとうにわたしをエルサレムに連れ帰ってくださるならば、わたしは主に礼拝をささげます』と言ったからです」。王が彼に、「安らかに行きなさい」と言ったので、彼は立ってヘブロンへ行った。』(2サムエル記15:7-9)
アブシャロムは、主への誓いを果たす為にヘブロンへ行って礼拝させて下さいとダビデに許可を求めたが、それは偽りであった。
彼が「礼拝」を捧げに行くのは、主に誓っていた事を果たすためではなく、あらかじめ設定していた謀反の引き金を引くためであった。
つまり、彼がヘブロンで礼拝をささげる事が、彼が王となる事の合図として用いられたのだ。
『そしてアブサロムは密使をイスラエルのすべての部族のうちにつかわして言った、「ラッパの響きを聞くならば、『アブサロムがヘブロンで王となった』と言いなさい」。二百人の招かれた者がエルサレムからアブサロムと共に行った。彼らは何心なく行き、何事をも知らなかった。アブサロムは犠牲をささげている間に人をつかわして、ダビデの議官ギロびとアヒトペルを、その町ギロから呼び寄せた。徒党は強く、民はしだいにアブサロムに加わった。』(2サムエル記15:10-12)
ここに議官・ギロ人アヒトフェルが登場するが、当時、彼が考え出すはかりごとは、神の言葉のように思われる程、優れたものだった。(2サムエル記16:23)
アヒトフェルはバテ・シェバの祖父にあたり(2サムエル記11:3, 23:34)、ダビデの事を快く思っていなかった可能性は、大いにある。
アブシャロムはそんな彼に、「敵の敵は味方」として、謀反に加わるよう呼びかけたのだろう。
こうしてアブシャロムは、四年の歳月をかけて多くの人の心を掴んで行き、また、アヒトフェルというダビデに敵対的で強力な相談役も得、ぬかりの無い裏工作を巡らして行ったため、ダビデ王権の転覆を成功させるには充分となったが、それに対しダビデ王はどう対応したか。
『ひとりの使者がダビデのところにきて、「イスラエルの人々の心はアブサロムに従いました」と言った。ダビデは、自分と一緒にエルサレムにいるすべての家来に言った、「立て、われわれは逃げよう。そうしなければアブサロムの前からのがれることはできなくなるであろう。急いで行くがよい。さもないと、彼らが急ぎ追いついて、われわれに害をこうむらせ、つるぎをもって町を撃つであろう」。』(2サムエル記15:13-14)
ダビデ王の対応は、一切抵抗する事なく、エルサレムの都を出て逃げる事だった。
その理由も、アブシャロムが剣で攻め入って、エルサレムの中から犠牲者が出るといけないから、であった。
まったくもって、ダビデ王の行動原理と、アブシャロムの行動原理は、逆である。
ダビデ王は、あくまで平和を動機として行動した。
彼は、自分の手練手管を用いず、全て主に依り頼み、それも、かつては自分のいのちを付け狙って来たサウル王を、二度も見逃してやった程だった。
対して、アブシャロムは、主に頼らずに自分の手練手管に頼って世渡りして行く性質で、しかも、「主への礼拝」さえ自分のはかりごとの材料にしてしまう程だった。
彼は結局、天地を創られた主は彼の「主」ではなく、自分のはかりごとのほうが、彼の「主」だったわけである。
大多数の人は、何も抵抗せずに無様に逃げるダビデより、手練手管に長けて地道に裏で準備して行くアブシャロムのほうを、心強いと思うであろう。
しかし、決定的にダビデの方が勝っている点がある。
それは、ダビデは主により頼み、主に信頼している、という点だ。
アブシャロムは、はかりごとや手練手管を用い、偽りの礼拝を引き金にして自分が王だと名乗ったが、それに対してダビデは、羊を飼っていた時に主に見出され、一方的に主から油注がれ、王となった。
主が味方するのは、どちらだろうか。それは、一目瞭然である。
主を除外したはかりごとや手練手管の成果物は、やがてはぼろが出て、そちらを頼りにした人々はやがて恥を見るようになる。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。』(詩篇1篇)
『王のしもべたちは王に言った、「しもべたちは、わが主君、王の選ばれる所をすべて行います」。こうして王は出て行き、その全家は彼に従った。王は十人のめかけを残して家を守らせた。王は出て行き、民はみな彼に従った。彼らは町はずれの家にとどまった。』(2サムエル記15:15-17)
それまでダビデ王が歩んできた、主に対する誠実な歩みを見て、彼について行った人達も、少なからずいた。
こうしてダビデ王は都落ちするのだが、彼はどのような心境で、自分の名がつけられた都から落ち延びて行ったのか。
彼は詩篇3編にて、その心境を記している。
『ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌。主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。』(詩篇3:1-4)
彼の心は、主に向いていた。助けの源を、主へと求めた。
いかに周りの人々が、「彼には助けがない」と言い合っているような状況であっても、それでも彼は主を盾とし、「主がわたしに答えて下さる」と信仰告白した。
ダビデのこのような祈り、久しぶりな気もする。
彼がサウルに追われていた時、よくこういう祈りをしていた。
ダビデ王は確かに一時、罪を犯した。その時、彼の罪は、神との間の隔たりとなって、祈る事もできなかっただろう。
しかし、彼は自分の罪を告白し、悔い改め、そして主が与えられる災いをも甘んじて受ける従順によって、主との交わりを回復した。
『わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。』(詩篇3:5-7)
ダビデは、息子に反逆され都落ちしてしまうような、悲しんで然るべき状況であっても、安らかに眠りにつく事が出来た。
主は、主を愛し、拠り所とする人には、平安と安らかな眠りを与えられる。しかし、悪い事をたくらむ者には、平安も安息した眠りも無いのだ。
『救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。』(詩篇3:8)
ダビデは、この詩の最後を、祝福で終えている。
それ程平安でゆとりのある心持ちだったのだ。
嘘をつく人は、その嘘がばれないようにするためにさらに嘘を重ね、誰にどの嘘をついたか色々の事を覚えて行かなくてはならないように、はかりごとをたくらむ人は、一々色々の事を覚え、考え、心配しなくてはならない。
しかし主に信頼し、主が全てを思い図って心配して下さる事を信じている人は、人を祝福するゆとりがあり、そして彼が発した祝福は、本人に返ってくるのだ
ダビデにこの度の事が起きたのは、元々はダビデの弱さ、罪、愚かさゆえだったかもしれない。
しかし、そんな無知、愚かさ、弱さにあっても、それでも主に向ける人は、主が守り、主がそれら全てから救い出し、悪い方向へ動いてしまった物事さえも、主は最善へと転換させて下さるのだ。