メッセージ - ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-9-18 22:50
ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
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ダビデ王に忠誠を貫いて、王と一緒に都落ちして行く人々もいたが、その中には、特に、異邦人たちが多かった事が記されている。
『彼のしもべたちは皆、彼のかたわらを進み、すべてのケレテびとと、すべてのペレテびと、および彼に従ってガテからきた六百人のガテびとは皆、王の前に進んだ。』(2サムエル記15:18)
ケレテ人はペリシテの地域に住んでいた人々で、彼らは共に、ダビデ王の親衛隊として側で仕えていた。(2サムエル記8:18、20:23、1歴代誌18:17)
また、ガテもペリシテの地である。ダビデはサウル王に追われていた時、そこに滞在していた。(1サムエル記27章)
『時に王はガテびとイッタイに言った、「どうしてあなたもまた、われわれと共に行くのですか。あなたは帰って王と共にいなさい。あなたは外国人で、また自分の国から追放された者だからです。あなたは、きのう来たばかりです。わたしは自分の行く所を知らずに行くのに、どうしてきょう、あなたを、われわれと共にさまよわせてよいでしょう。あなたは帰りなさい。あなたの兄弟たちも連れて帰りなさい。どうぞ主が恵みと真実をあなたに示してくださるように」。』(2サムエル記15:19-20)
イッタイを頭とするガテ人達は、ダビデを訪ねて来たばかりだ。それも、昨日。
彼らが来た時、イスラエル国はちょうど急変時で、ダビデは今日、都落ちして逃げている。
そんな状況だと言うのに、ダビデ王について来ようとした彼らに、ダビデは、自分の所に帰るように、と促すのだが、彼はそれを拒み、それでもダビデ王について行く、と言うのだ。
彼らは、ダビデの人柄に惹かれて来たのであろうし、武人として一度決心した忠誠を守る心もあっただろう。しかし彼らには、もっと高貴な動機があった。
『イッタイは王に答えた、「主(エホバ)は生きておられる。わが君、王は生きておられる。わが君、王のおられる所に、死ぬも生きるも、しもべもまたそこにおります」』(2サムエル記15:21)。
そう、彼らには「主(エホバ)」に対する信仰があったのだ。
彼ら、イスラエルの神・主に頼ろうという動機でイスラエルに来たのであり、そして彼らはアブシャロムではなく、ダビデを選んだ。
ダビデにこれからついて行く事は、いつ終わるとも知れない流浪と逃亡の生活に入る事を意味する。
常識的な観点で見るなら、ダビデ王はいつにでもアブシャロムに追い着かれ、殺されてしまうか分からない状況だ。
しかし、主に信頼する人々には、分かるのだ。主は、アブシャロムの側にではなく、ダビデの側におられる、と。
アブシャロムは、礼拝さえ、自分が王に成り上がるための道具とした。しかしダビデは、心底から主を敬い、主に信頼し、主に従順するがゆえに、主の懲らしめを甘じて受けている。(詩篇3篇)
ダビデについて行った当時の異邦の戦士たちに、私達もならうべきである。
今が旬の指導者が、いかに美しく、魅力的で、有能で、破竹の勢いがあり、周りの皆がなびいても、ただ一点、主を軽んじるような者であるとしたなら、その者について行かない方が良い。
かの異邦の戦士たちは、アブシャロムを選ばず、事実上敗北して都落ちしているようなダビデのほうを選んだ。
その理由は、ただ、ダビデが主に信頼し、主もまたダビデを愛しておられる、という点で。
ダビデのひいおばあさんであるモアブ人ルツも、同じ信仰だった。
彼女も「信仰」によって、ナオミに付いて行ってイスラエルに入った。
常識的に考えるなら、ナオミについて行く事には何のメリットも無く、結婚の望みも将来も見えないのに、この、夫と息子たちを失ってしまった一人の老女と共にイスラエルの神・主を頼りにして一緒にイスラエルに行こうとした信仰を、主は豊かに省みられた。
ルツは後に、栄光の家系へと嫁ぐ幸いを得、ダビデ王家の母となり、イエスキリストの系図に載る幸いを得た。
私達もルツのように、また、かの異邦の戦士たちのように、油注がれた王・キリストにより頼み、その御翼の陰に宿るなら、大いなる栄光と、豊かな報いがあるのだ。
『ダビデはイッタイに言った、「では進んで行きなさい」。そこでガテびとイッタイは進み、また彼のすべての従者および彼と共にいた子どもたちも皆、進んだ。』(2サムエル記15:22)
ダビデは、彼らとのわずかな言葉のやり取りで、この、昨日来たばかりの異邦の戦士たち六百人は、信頼に足る、と判断し、一緒に行動する事にした。
主に信頼する人同士は、霊と霊が共鳴し、理解する事に多くの時間や言葉はいらないものだ。
『国中みな大声で泣いた。民はみな進んだ。王もまたキデロンの谷を渡って進み、民は皆進んで荒野の方に向かった。』(2サムエル記15:23)
ダビデ王はまさに、後に来られるメシヤ・イエス様の雛形である。
イエス様もキデロンの谷を通って、オリーブ山で祈られ、十字架を背負って”都落ち”する時も、大勢のユダヤ人達はあざけり罵ったけれども、少数の異邦人達や、見捨てられてしまったような人々が、泣きながらイエス様について行った。
そしてイエス様は、後によみがえり、全能の父なる神の右に座し、世のどの王よりも高く上げられ、多くの異邦人達の救いの望みとなられた。
ダビデ王を偉大だと認知するユダヤ人達は、全て、イエス様こそ来るべきダビデの子・メシヤである事を、認知するべきだ。