メッセージ - いざという時に露わにされる人間の本質(2サムエル記16:1-14)
いざという時に露わにされる人間の本質(2サムエル記16:1-14)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-9-23 6:25
いざという時に露わにされる人間の本質(2サムエル記16:1-14)
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ダビデというイスラエルの王が、この度、王座を追われ、都落ちして行く事によって、ダビデを取り巻いていた人々の色々な人間模様が浮き彫りにされて行く。
『ダビデが山の頂を過ぎて、すこし行った時、メピボセテのしもべヂバは、くらを置いた二頭のろばを引き、その上にパン二百個、干ぶどう百ふさ、夏のくだもの一百、ぶどう酒一袋を載せてきてダビデを迎えた。王はヂバに言った、「あなたはどうしてこれらのものを持ってきたのですか」。ヂバは答えた、「ろばは王の家族が乗るため、パンと夏のくだものは若者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で弱った者が飲むためです」。』(2サムエル記16:1-2)
ダビデにこれらの差し入れを持ってきたヂバという男は、9章にも登場した。
彼は元々、サウル家のしもべであり、ダビデからは、足が不自由なヨナタンの子メピボセテに仕えるようにされた者である。
『王は言った、「あなたの主人の子はどこにおるのですか」。ヂバは王に言った、「エルサレムにとどまっています。彼は、『イスラエルの家はきょう、わたしの父の国をわたしに返すであろう』と思ったのです」。王はヂバに言った、「見よ、メピボセテのものはことごとくあなたのものです」。ヂバは言った、「わたしは敬意を表します。わが主、王よ、あなたの前にいつまでも恵みを得させてください」。』(2サムエル記16:3-4)
ダビデ王はこの時、ヂバから言われた事を鵜呑みにして「メピボセテのものはことごとくあなたのもの」と定めたが、実はこの時ヂバのほうが偽りを言っていて、メピボセテのほうがダビデに対し真実だった事が、後に分かる。
ヂバは、後にダビデが勢力回復する事を踏んで、この危急の事態を利用し、のし上がろうとしたのだろう。
もう一人、都落ちしているダビデに、事を起こした者が、サウル王家の中にいた。
『ダビデ王がバホリムにきた時、サウルの家の一族の者がひとりそこから出てきた。その名をシメイといい、ゲラの子である。彼は出てきながら絶えずのろった。そして彼はダビデとダビデ王のもろもろの家来に向かって石を投げた。その時、民と勇士たちはみな王の左右にいた。
シメイはのろう時にこう言った、「血を流す人よ、よこしまな人よ、立ち去れ、立ち去れ。あなたが代って王となったサウルの家の血をすべて主があなたに報いられたのだ。主は王国をあなたの子アブサロムの手に渡された。見よ、あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」。』(2サムエル記16:5-8)
ダビデはサウル家のシメイによって、「血を流す人」呼ばわりされ、主の御名によって呪われたが、ダビデのほうは、サウル王家の人の血は一人も流さなかったし、それどころかサウル王家から受けて来た悪に対し、いつも善で報いて来た実績がある。
だから「サウル家の血の報い」を受けるいわれは、ダビデのほうには一切無いはずである。
『時にゼルヤの子アビシャイは王に言った、「この死んだ犬がどうしてわが主、王をのろってよかろうか。わたしに、行って彼の首を取らせてください」。しかし王は言った、「ゼルヤの子たちよ、あなたがたと、なんのかかわりがあるのか。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか」。
ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。』(2サムエル記16:9-11)
ダビデは今、自分が都を追われ、みじめに呪われながら落ちのびているこの状況は、「主が」そのようになされた、と言った。
きっとダビデは、「あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」という言葉に、心を突かれたのだろう。
ダビデはサウル家の血は流しはしなかったものの、忠実で罪なき部下・ウリヤの血を流した事の故に、今、剣に追われている真っ最中なのだから。
実際、この時、ダビデはそれまで誰からも言われなかった事を、言われている。
すなわち、「あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」と。
ダビデは、呪いの言葉と石を投げつけられるによって、今まさにウリヤの血の報いを「主から」受けている、そしてシメイは、その代弁者としてたまたま用いられているに過ぎない、と取ったのだろう。
私達も時に、過去に犯した悪事の報いを、主からの公平なるさばきによって、全く別の方面から受ける事があるかもしれない。
もちろん、悪魔サタンからの、ただ聖徒を貶めるだけの攻撃には毅然と立ち向かうべきである。
しかし、「主が」敢えて低くし、「主の御前に心当たりのある」事ゆえに懲らしめを受けているとするなら、私達もダビデのように謙虚にへりくだって、主からの懲らしめを受けるべきである。
その低くされている時期は、悲しいかもしれないが、その忍耐には望みがある。
ダビデは言っている。
『主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない。』(2サムエル記16:12)
主は、主から来る懲らしめを甘んじて受ける聖徒を、いつまでもそのまま放っておくようなお方ではない。
主はやがて助け、その屈辱的な状況の中にあっても恥を見させる事は無い。やがては主ご自身が立ち上がり、弁護者となって正しいさばきをして下さるのだ。
『わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。
わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか、われわれは共に立とう。わたしのあだはだれか、わたしの所へ近くこさせよ。見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。』(イザヤ50:6-9)
私達が一時期、低くされ、敵が高くされているその時、私達の本質と、周囲の人々の本質が、露わにされる。
ある人は状況を利用して自分だけがのし上がろうとしたり、あるいは普段はおとなしく何も発言しなかった人が突然立ち上がって呪いや石を投げかけて来たりする事もある。
あるいは、本当に大切にすべき友が明らかにされたりもする。
人は、主から高められる事も、低くされる事もあるが、逆風の時も順風の時も、そのどちらの状況であっても祝福される人とは、いつでも主に信頼する人だ。